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11.総論・沖縄のバス(2) 沖縄県庁のバス再編案解説とS駅私案[沖縄]

・「わった〜バス党」結成!沖縄県庁案のバス改革案を読み解く

バス利用の活性化が課題となっている沖縄。県庁でも本腰を入れた取り組みが進んでおり、一例としては「わった〜バス党」による広報活動が挙げられる。

 

www.watta-bus.com

「わったー」とはウチナーグチで「私たち」といった意味。「私たちのバスの党」というわけだ。CMを県内で放映したり、県内を走るバスにステッカーを掲出したり、バス通勤を奨励する企業やバス利用を応援する個人を「党員」として募ったりと、わった〜バス党による活動は多岐にわたる。

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彼らが沖縄のバスをリードする

中でも県民に触れる機会が多いのは、バスに関する様々なニュースを、わった〜バス党の面々がコミカルに発信するCMだろう。県が製作しているとは思えないほど、ユーモアたっぷりなのが沖縄らしい。「急行バス那覇〜コザ間急行バスの運行や、朝夕の国道58号バスレーン設定など、とかく固くなりがちな政策のニュースを親しみやすく県民に伝えている。朝まで生テ●ビ!を模した討論番組風のCMでは、「急行バスを増便すべきか」「もっとウチナー感を出すべきか」など、短時間ながら結構真剣な議論が(コミカルに)繰り広げられており、見応えがあった。結党6年を迎え、1年間だった急行バスの実証運行が継続となるなど、彼らの努力は身を結びつつある。マニフェスト

もっと乗りやすく

もっとスムーズにもっと安心をもっと分かりやすくもっとスマートにもっと確実にQ1 ぬち癒しぷろぐらむとは何ですか?

わった~バス党の「マニフェスト」。確かにやわらかくてわかりやすい

 

勿論、わった〜バス党による広報活動と並行して、那覇バスターミナルのリニューアルオープン、ゆいレールのてだこ浦西延伸など、バスを取り巻く環境の変化を見据えた、バス再編に関する議論も進められている。

県庁案の中でも、大きな柱は「幹線バス」と「支線バス」への分離だ。先週紹介した新潟市とは異なり、鉄道が殆どない沖縄では中長距離輸送も全てバスが担うため、新潟のような「都市部」と「郊外部」を全て分離するのではなく、県庁案では本線(=国道58号・330号など)を貫く「急行」と、支線直通を含む「各停」への分離が主眼に置かれている。

那覇〜コザ間急行バスを基幹バスとし、宇地泊でコンベンションセンター行き、伊佐で嘉手納・読谷・恩納方面行き、コザで屋慶名・石川方面行きの支線バスがそれぞれ接続するようなイメージが描かれている。 

f:id:stationoffice:20180510211458j:plain第1期のバス再編案(交通結節点整備前)。実線は急行、破線は各停を表す。那覇〜コザ・伊佐間急行バスを柱に、北谷・伊佐・大謝名の各ラインに整理する。この時点では現行系統を維持する。

f:id:stationoffice:20180510211657j:plain 第2期のバス再編案(交通結節点整備後)。宇地泊、伊佐、普天間、コザの交通結節点を整備し、基幹バスと支線バスに分割。各支線からの那覇直通を絞る代わり、各交通結節点にてシームレスな基幹バス(急行)⇔支線バス乗り継ぎを可能にする。現行の長距離系統(120、77など)は交通結節点で折り返しとなる。

また、基幹バス・支線バスの結節点となる宇地泊、伊佐、胡屋〜コザの具体的な整備案まで言及されているのは興味深い。基幹バス・支線バスを縦列停車させ、歩道上を前後移動するだけで乗り換えられるなど、乗り継ぎが極力シームレスとなるよう配慮された設計になっている。国道58号のバスレーン設定等と合わせ、まさにBRT(Bus Rapid Transit=バス高速輸送システム)に匹敵する、高度なモビリティシステムを目指していることが窺える。県は本気なのだ。

 

f:id:stationoffice:20180510211836j:plain宇地泊の整備案。牧港立体を活用し、コンベンションセンターへの支線バスは立体下のUターンレーンで転回させる。また基幹バスと支線バスを直列停車させ、前後動だけで乗り換えられるようにする。

f:id:stationoffice:20180511181416j:plain伊佐の整備案。基幹バスの急行・各停、北谷方面、コザ方面を直列停車させ、平面移動のみで4本のバスの乗り継ぎができるようになる。尚、コザ→那覇方面のバスが一旦北上する取り回しの悪さはバス事業者から指摘されており、再設計の可能性がある。

f:id:stationoffice:20180510212236j:plainコザのリニアバスターミナル運用イメージ。交通結節点の用地確保が難しいため、機能を沖縄市中心部に分散させるもの。那覇方面からはコザ(〜具志川BT)まで、石川・屋慶名方面からは胡屋までの運行とし、双方が重複する胡屋〜コザ間での乗り継ぎを自由とする。

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県プランのスケジュール。今後2~3年の間に系統の再編、バスレーンの延長、乗継割引実施等の重点施策が目白押しとなっている。

※上記資料は沖縄県公共交通活性化推進協議会より引用

沖縄県公共交通活性化推進協議会/沖縄県

・モノレールが出てこない県のプラン

ところが、県のプランではモノレールへの言及が殆どない。当事者へのヒアリングの中で沖縄都市モノレール株式会社が登場するだけ、かつモノレールを含んだ再編案の言及もないので、県のプランではあくまでバス単体の改善を考えているということだろう。何しろ、広報活動の主体を担う組織が「バス党」と名乗っているくらいなのだから。

自分としてはモノレールも含んだ再編が不可欠だと思う。沖縄のバスが抱える「複雑な路線」と「定時性の喪失」という2つの問題のうち、県のプランは「複雑な路線の単純化」が議論の主眼となっているように感じる。しかし、路線を単純化したところで、そして急行バスを設定したところで定時性が向上するわけではない。一般道を走行する以上交通信号には従わなければならないし、バス専用レーンといっても路上駐車や自転車・歩行者といった撹乱要因から解放されるわけではない。要は、バスは鉄道のような始終バス専用の走行空間を確保できるわけではないのだ。

そして、最も撹乱要因が多い那覇市内において、専用の走行空間を有しているのがモノレールである以上、バスの短所を補う存在として連携しない手はないと思う。おもろまち駅赤嶺駅にはバスモノ連携を見据えたバスターミナルが用意されていることからも、こうした考えがないわけではないことの現れだ。混雑する那覇市内は定時性に優れるモノレール、郊外であればある程度定時性を担保できるバスとで連携すればよいというのは、ごく自然な考えのはず。

ここからは推論の域を出ないが、モノレールが那覇市内でほぼ完結していることが、県のプランにモノレールが出てこない原因ではないだろうか。

無理からぬ話ではあるが、那覇市内においては那覇空港国際通り首里城という都市軸を結ぶモビリティとしてモノレールが確立した存在であり、バスはモノレールの恩恵が及ばない場所をカバーする補助的なモビリティでしかない。要は、那覇市全体の政策課題として、バスの問題はそれほど大きな問題ではない。しかしながら、那覇近郊の浦添市宜野湾市沖縄市などにおいて、バスは那覇市街への重要な足であり、従って政策課題としても大きな問題になる。ところが、複雑かつ定時性を損なう大きな要因である那覇市内の問題に対して、当の那覇市がそれほど大きな問題として対処しないために、手をつけやすく、自治体の協力を得やすい、宇地泊・伊佐・普天間(宜野湾市)および胡屋〜コザ(沖縄市)の交通結節点整備を主軸として動くことになった…というのが、モノレールが出てこない原因だろう。

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沖縄都市モノレール株式会社の持株比率。株式の99%を上位5位の公的機関が保有するが、沿線自治体の那覇市浦添市を足すと、沖縄県より僅かに低い35%の値になる。那覇市浦添市が首を縦に振らない話は県としても動かせないだろう(出典:平成29年度沖縄県公社等の概要調書の公表) 

平成29年度公社等の概要調書の公表/沖縄県

こうした話は沖縄に限った話ではなく、例えば愛知と三重を結ぶ国道は三重県内に入ると途端に愛知県内より道が良くなる(三重に向かう道路は愛知にとってあまり重要ではないが、三重にとって"名古屋"へ向かう道路は重要)とか、小田急線の複々線化が最も早く完成したのは世田谷区内ではなく狛江市内(狛江市にとって都心へ向かう小田急線は重要だが、世田谷区にとっての小田急線は狛江市にとっての小田急線ほど重要でない)とか、要は都心の問題は郊外の方が重要に捉えるものであるという延長線上に過ぎない。

しかしながら、那覇市内の輻輳が沖縄のバス全体の信頼性を損なっている主因である以上、那覇市も無関心を貫くわけにはいかない。那覇バスターミナルの再開発を契機に、カフーナ旭橋の再開発地区全体が集客を高めなければならない目指さなければならないことであるし、バスの高度化は那覇市にとっても悪い話では全くない。それ以前に、観光客がそぞろ歩く国際通りの交通量を減らし、歩行環境を良くすることは、那覇市にとっても沖縄県にとっても重要な課題のはず。片側一車線の国際通りを、乗客数人の牧志経由のバスが何台も連なって走っている今の状況を放置していいはずがない。

f:id:stationoffice:20180511191029j:image国際通り経由は便利だけども、多過ぎる上に渋滞するために時間がかかりすぎる

以上の点を踏まえ、私案を述べたいと思う。

・バスモノ乗り継ぎを含めた制度設計を

提案の骨子は以下の3つだ。

①バス(直通)・バス⇔バス・バス⇔モノレールのゾーン運賃化
赤嶺駅おもろまち駅てだこ浦西駅の交通結節点整備
③市外線の牧志経由をおもろまち駅折り返しに短縮f:id:stationoffice:20180502212659j:plain
①バス(直通)・バス⇔バス・バス⇔モノレールのゾーン運賃化

ゾーン運賃とは、A⇔B間の移動において、直通バスでも、バス⇔バス乗継でも、バス⇔モノレール乗継でも運賃が同額となる制度のこと。こうすることで、時間がかかってもいいから乗り換えなしで行きたい人(高齢者など)、急行バスと支線バスを乗り継ぐ人、渋滞を避ける為バスとモノレールを乗り継ぐ人など、様々なニーズに、様々なチャンネルで応えられるようになる。西ヨーロッパの都市では「運輸連合」を交通事業者間で組織し、協定を結ぶことで運賃収入を各事業者へ按分する仕組みを整えているところが多い。

f:id:stationoffice:20180511191151j:imagef:id:stationoffice:20180511191223j:imageドイツ・デュッセルドルフUバーン。市内では地下鉄、郊外では路面電車、田舎では普通鉄道と様々な区間を直通運転する不思議な乗り物。モードがコロコロ変わるが、同一地点間の移動であればゾーン運賃制であるため、電車でもバスでも路面電車でも乗り換えても直通でも運賃は同額だ

これを那覇市でも応用すべきだと考える。それに際し、重要になるのがICカードの導入である。OKICAは既にバス大手4社とモノレールが導入を済ませており、連絡定期券の発行など共通化も進められている。現金でのゾーン運賃化は運賃収受の手間がかかりすぎるので取り扱わないにしても、OKICA利用時に限れば技術的にはそこまで難しくないはず。

後は運賃収入の按分方法であるが、現行制度上のバス・モノレール乗継に比べると減収になってしまうのが課題だ。

しかしながら、モノレールには隣駅まで150円となる「おとなりきっぷ」が設定されている。このおとなりきっぷは2016年の値上げまでは100円であったため、市内短距離利用の掘り起こしに大きく寄与していた。このおとなりきっぷ制度を踏まえ、バス・モノレール乗継利用に対してはモノレール会社へ100円を按分すれば十分だと思う。以下の例をご覧いただきたい。

例:牧港→安里

●バスのみ・・・450円・29分

●バス・モノレール乗継(おもろまち経由)・・バス380円+モノレール150円(おとなりきっぷ)=530円・28分(乗継3分)

バスとモノレールを乗り継いでも、バスのみで行っても所要時間は互角な上、おとなりきっぷが100円であれば30円差にまで縮まる。バスの定時制の無さや国際通りの混雑を思えば、利用者の掘り起しに繋がるのは確実だ。加えて、大手バス4社の運賃は同一区間であればほぼ揃えられている上に鉄道(モノレール)会社は1社のみであることから、運輸連合結成による調整は本土よりもやりやすいはず。ソーン運賃化は、沖縄の公共交通復権のカギになると思う。

赤嶺駅おもろまち駅てだこ浦西駅の交通結節点整備

上記のゾーン運賃化の効果を高めるにあたっては、もちろんバスモノ乗継のシームレス化が不可欠になるのは言うまでもない。

特に、おもろまち駅はバスモノ乗継を見据えた駅前広場の整備がなされているが、天久・安謝方面への出発・進入にしか対応しておらず、駅前広場を通り抜けることができないのはいかにも使い勝手が悪い。先般紹介した【7】【8】首里城下町線などは、おもろまち駅前広場発着にするために、逆「コ」の字を描くような大回りになっているのだ。この駅前広場を国道330号へ貫通させ、おもろまち駅折り返し便も那覇BT発着便もおもろまち駅を経由させるようにすれば、現状は数少ないおもろまち駅行きを待つしかないのと比べて大幅な利便性向上になる。駅を経由するバスの本数を増やし、エスカレーターや雨に濡れない上屋の整備を通し、シームレスな乗り継ぎ環境の整備を目指してほしい。

併せて、日本最南端の駅・赤嶺駅の広場を本島南部・糸満方面への交通結節点として、てだこ浦西駅をコザ方面最寄駅としての整備を進めてほしい。那覇都心部へ直行するバスを減らし、乗継メインとなれば、公共交通全体の速達性・定時性の向上に繋がるはずだ。

③市外線の牧志経由をおもろまち駅折り返しに短縮

県のプランで国道58号経由の急行バスを定時性の高い久茂地経由に統一することになっており、これには自分も賛成する。しかし、各停バスは牧志経由で残ることになっている。これをもう一歩踏み込み、①②を踏まえて市外線の牧志経由はおもろまち駅折り返しに短縮してよいと考える。都心直行は基幹バス(急行)に任せ、牧志近辺への需要はおもろまち乗継のモノレールにリレーするといったイメージだ。それでもなお残る国際通りのバス需要に対してはおもろまち駅等での市内線への乗り継ぎで十分カバーできる。定時性を損なう上、乗客が多いわけではない牧志経由の効率化を通し、余力を振り向ける必要がある。

・沖縄のバスが日本のバスをリードする

以上3点が私案である。日本一バスに頼る沖縄県であるからこそ、バス主導の施策を打ち出せるのではないだろうか。日本の公共交通はどうしても鉄道主体になるため、BRT(バス高速輸送システム)や基幹バスの導入などに留まり、システム面まで至らない。新潟市にしても連接バス導入と系統再編に留まっていて、「連接バス=BRT」といった風潮すらある。名古屋市の基幹バスやガイドウェイバスが日本で最もBRTに近い存在ではあるものの、名古屋市の都市規模からして交通の主役はやはり地下鉄・名鉄・JRであり、よく論壇で取り上げられる基幹バス新出来町線や名古屋ガイドウェイバスにしても、都市交通の主役ではない。

しかし、鉄軌道がゆいレールしかない沖縄県は、広域交通・那覇以外の市内交通ともバスが担う。それであるからこそ、上に挙げたようなドラスティックな策を打ち出してほしい思いがある。「駅のようなバス停」と言えるほど、バス停の位置が沖縄の町中ではかなり意識される。そのような場所は鉄道が張り巡らされた本土にはあまりない。

f:id:stationoffice:20180511190957j:imageカフーナ旭橋の再開発地区を読谷行きのバスが行く。本土よりも遅くまで沖縄のバスは走る

「バス党」が活躍するほど、ある意味バスの存在感が県民の中に(低まっているとはいえ)ある沖縄に、日本のバスをリードしていってもらいたい。

もっと便利になるために頑張る沖縄のバスに、エールを送ろう。

 

(つづく)

10.総論・沖縄のバス(1) 新潟市の先進事例紹介[沖縄][新潟]

S駅が考える沖縄のバス問題解決のための私案。二週にわたり投稿していきます。

輻輳を極める沖縄のバス

沖縄のバスは大きく二つの問題を抱えている。一つは多系統少本数であり路線が複雑すぎること、もう一つは交通渋滞等による定時性の喪失である。つまり、「わかりにくい上に時間通りに来ない」という状態になっているというわけだ。

f:id:stationoffice:20180504220311j:image組んず解れつしながら那覇へ向かう(国道58号-宜野湾市宇地泊-那覇向け)

沖縄のバスは再頻発系統でも15分間隔程度であり、これより需要が多い区間は複数系統が束になって対応する形となっている。しかしながら、那覇市付近の国道58号や、コザ付近の国道330号はバスが団子状態になって走るのが恒常化している。このためバス同士の渋滞による遅延も多く、今来たのが一体どの時刻のバスなのかわからないといったこともしばしば。

さらにいえば、那覇バスターミナルなどの始発バス停において途中まで同じ経路のバス同士であっても、乗車バス停が異なることが珍しくない。例えば、那覇市上之屋(うえのや)から宜野湾市伊佐までは国道58号を通るバスが集中する区間で、ほぼ待ち時間なしでバスを利用できる。しかし、那覇側の起終点が若干異なったり、似たような方向を目指すバス同士であっても系統番号が異なったりして、もはや地元民でも理解できないのではないかというほど、複雑を通り越して難解な状況となっている。以下に、那覇市上之屋から宜野湾市宇地泊まで国道58号を経由するバスの一覧を示す。大体の共通性は見られるものの、どれだけ輻輳した状況になっているのかがわかるだろう。

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那覇バスターミナル建替工事に伴い、那覇バスターミナル始発・終着系統は一部バスターミナル周辺での発着に変更されているが、本表では那覇BT表記で統一した。※色分けはバスマップ沖縄の分類による。

www.kotsu-okinawa.org

大体の傾向はつかめるが、これを正確に把握している利用者など県民でもほぼいないのではないだろうか。

特にひどいのがコンベンションセンター行きで、運行会社が【26】は琉球バス交通、【32】は沖縄バスで違うために、那覇市内とコンベンションセンターを結ぶというほぼ同じ役割を担っているにも関わらず、起終点の位置が違う上に、【120】名護西空港線のように共同運行ではないために間隔調整等もされておらず、それぞれ毎時1~2本なのに2分続行で固まって来たりする始末。コンベンションセンターはその性質上県外からの訪問者も多いだろうに、こんな状況ではいくらバスの利用を呼び掛けても限界がある。

f:id:stationoffice:20180504220802j:image名護行きと読谷行きは途中まで同じ国道58号を北上するが、同じ場所から方向が全く異なる糸満行きも出るのはなんともわかりにくい(那覇バスターミナル)

 

・沖縄のバスの問題は「新潟方式」で解決するか

沖縄のバスの諸問題と似たような課題を抱えていたのが新潟市だ。新潟市は人口80万人を抱える政令指定都市であるが、JR以外の鉄道がない(1999年まで私鉄が1路線のみあったが廃止)。JR以外の鉄道がないのは政令指定都市のなかで新潟市のみであり、公共交通機関が不便な状況にある。新潟市は広大な新潟平野に位置するために市街地が面に広がっており、線でしか対応できない鉄道・バスはどうしても不便になってしまう。加えて新潟市は冬季の積雪といった問題もあり、除雪された雪が溜まって道幅が狭くなったり、視界が悪くなって減速運転せざるを得なかったりと、冬季は定時性が阻害される環境にある。これらの理由からバス利用者は長いこと減少傾向にあり、ネットワークが崩壊する危機を迎えていた。

そこで、新潟市が打ち出した方策は、いくつもの支線バスが都心部へ直通する形態を、幹線バスと支線バスを乗り換え地点で乗り継ぐ形態に改めるというものだった。新潟市が作成した資料に簡潔にまとめられているので、それをご覧いただこう。

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 「直通だったのが途中で乗り換えになる」というとマイナスの印象を受けるが、実はこのようにメリットも多い。ポイントは以下の4つだ。

1.連接バス導入で収容力向上+ICカードで精算の手間を省く

複数の支線バスの乗客を幹線バス1台で受け入れる関係上、従来のバスでは収容力が不足する。そこで、2台連結の連接バス「ツインくる」を導入して収容力不足を解決したのだ。併せて幹線バスのうち一部の便を快速とし、需要が高い主要停留所を快速の連接バス、それ以外の停留所を各停の一般バスに分担させ、適正化を図った。

f:id:stationoffice:20180504221300j:image新潟交通の連節バス「ツインくる」。後ろの一般バスとの収容力の差は歴然だ(新潟駅万代口)

また、乗り換えを前提とする仕組みに改めるに際し、乗り換える度に小銭をジャラジャラ精算するのでは面倒だし、停留所でのタイムロスも大きい。そこでICカード「りゅーと」を導入して精算の手間を軽減した。りゅーとはSuicaPASMOなど全国ICカードの利用にも対応しており(但しりゅーとではJRには乗れない)、来街者もICカードを使えるようになっているのはありがたい。

2.新潟駅都心部の往来が単純明快になった

新潟駅都心部の古町(ふるまち)・市役所は2~3km離れているため、この間を移動する乗客は多かったが、従来は新潟駅前のバスターミナルにズラリと13番まで並ぶバスの中から、先に発車するバスはどれなのか、またそのバスは都心部を通るのか(一部経由しないものがある)を、瞬時に判断しなければならなかった。新潟駅前バスターミナルではこの手間があるため、一つ先の「駅前通」まで歩き、最初に来たバスに乗るという人も多かったようだ。わかりにくい上、乗客によっては一つ先のバス停まで歩かせていたわけで、特に積雪時にはかなりの負担になっていた。

しかし、新潟駅前~都心部が幹線バスに集約されたことで、都心部までの乗客はどれに乗ればいいのかを考える必要がなくなった。遠来からの来街者はほぼ幹線バスの区間で用が足りるため、「幹線バスに乗ればいい」という、これ以上ないほどわかりやすくなったわけだ。また、幹線バスの乗り場は駅に一番近い所になったため、場合によっては遠くの乗り場まで歩かされるといったことも無くなった。積雪時でも駅から屋根続きのままバスに乗れるようになり、これも相当な改善である。

f:id:stationoffice:20180504221523j:image新潟駅前の一番便利な場所が幹線バス乗り場になり、JRとの乗り換え利便性が劇的に向上した(新潟駅万代口)

3.支線バスの増発・定時性向上につながった

支線バスが都心部の手前で折り返しとなり、都心部で団子状態になっていたものを支線へ振り向けた。このため増発になったばかりでなく、道路が混雑する都心部の渋滞に巻き込まれることがなくなったために定時性が向上したことも大きなメリットとして挙げられる。

f:id:stationoffice:20180504224709j:image乗継地点の主要停留所に設置されたディスプレイ。幹線バス・支線バスだけでなく新潟駅からのJR乗り継ぎも案内(青山)

4.朝夕ラッシュ時は直行便を存置

乗継地点とされた拠点バス停には待合室が整備されたり、隣接するショッピングセンターがフードコートをバス待合所として開放するなど、乗り換えの抵抗感を軽減するように努められてはいるものの、それでも高齢者、障害者、子供連れなど、乗り換えに大きな負担を伴う乗客もいる。こうした乗客に対応するため、朝夕のラッシュ時には幹線バスだけでは本数が不足することから、一部の便を都心部直通で存置している。杓子定規に分断しない配慮も必要だろう。

f:id:stationoffice:20180504222125j:imagef:id:stationoffice:20180504222203j:imagef:id:stationoffice:20180504222238j:image乗継地点の青山バスターミナルに隣接するイオン新潟青山店。店内のフードコートがバス乗り換え待ち客向けに解放され、ICカードチャージ機や案内ディスプレイも設置された(青山)

 

以上、先進事例として新潟市の取り組みを紹介した。これら取り組みの奏功によって、長きにわたり減少し続けていたバス利用客が増加し始めており、結果が出ているのだ(平成27年→29年で2.5%増、出典:新潟市HP)。

新潟市那覇市と同様、中心市街地でバスが団子になり、郊外では本数が少ない上になかなか来ないという状況だったのが、乗継システムを整備し直したことで問題解決を図った。今後はより都市軸を強化すべく、連節バスよりも定時性や収容力に優れたLRT(次世代形路面電車)の導入を目指すという。

LRT富山市が2006年に日本の先陣を切って導入し、宇都宮市が2022年の開業を目指して整備を進めるなど、各地で導入に向けた検討が進んでいる。しかし新潟市はまず既存のバスの利便性を向上させ、基礎を固めてからという方針にしたようだ。沖縄でも計画が進む那覇〜名護間鉄道の規格として候補に入っているが、どう転ぶかはまだわからない。

 

次回は、新潟市の事例を踏まえた、那覇のバス問題解決のための私案を提示したい。沖縄県庁も交通戦略プランを立案しているものの、あくまでバス単体の改善策に留まっている。自分としては、バスの改善ももちろんではあるが、那覇市内では渋滞の影響を受けない既存のモノレールを活用すべきだと思う。今年秋の旭橋・那覇バスターミナルの完成、そして来年に迫った首里〜てだこ浦西間の延伸は、その一つの起爆剤になるはずだ。

f:id:stationoffice:20180504224340j:image建替工事が佳境を迎えている那覇バスターミナル。完成はもうすぐだ(那覇バスターミナル)

以下に私案のバス・モノレール乗継システムの地図を示す。モノレール開業当時に模索されたものの頓挫してしまったおもろまち駅乗り継ぎの反省、県庁作成の交通戦略プランの絵解きも踏まえ、現時点でまとめられるだけの提案をしたいと思っている。

f:id:stationoffice:20180502212659j:plainS駅私案のバス・モノレール乗継システム

 

(つづく)

9.沖縄都市モノレール ゆいレール

 ・「沖縄電気軌道」が生まれ変わったゆいレール

ホテルに荷物を置き、首里城へ向かうべく僕とO君は旭橋駅に向かった。「沖縄県唯一の鉄道」の旅を始めるにあたって、那覇空港からではなく、「沖縄県鉄道発祥の地:旭橋」から乗車する――という、歴史的意義のようなものを感じないではなかった。

前回の記事でも少し触れたが、戦前まで走っていた旧・沖縄県営鉄道は、ゆいレール旭橋駅の向かいにあった旧那覇駅を出発していったん南東へ向かい、嘉手納線は古波蔵から与儀へ大カーブしてゆいレール安里駅付近を通り、牧港・嘉手納方面へ向かっていた。ちょうど名古屋のJR中央本線のように中心市街地の外側を取り囲むような迂回ルートであり、1時間に1本程度と本数も多くなかったため、市内交通としてはあまり機能していなかった。

これに対し、旭橋駅・旧那覇駅よりも海側の通堂(とんどう)を始発とし、旭橋駅・旧那覇駅の目の前を通っていた沖縄電気軌道は、市内交通としての役割が第一であったため、当時の中心市街地を縫うように走った。首里を終点としたのも、現代那覇市の交通の主役たるゆいレールと同じだ。

これら戦前まで走っていた鉄道と、現代の地図を重ね合わせると、以下のようになる。

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赤:沖縄都市モノレールゆいレール)2003年開業 黄:沖縄都市モノレールゆいレール)延伸区間 2020年春開業予定 緑:沖縄電気軌道 1914年開業、1933年廃止 青:沖縄県営鉄道(与那原線・嘉手納線・糸満線) 1922年開業、1945年廃止

Google Map の「マイマップ」機能を利用。尚、各路線は正確な位置を示すものではありません。

こうして見ると、戦前の沖縄県営鉄道および沖縄電気軌道と、現代のゆいレール旭橋駅・旧那覇駅および安里駅の2か所で3線が交わるものの、通る経路がかなり異なっていることがわかる。特に沖縄電気軌道とゆいレールは、共に旭橋から安里を通り首里を目指しているにも関わらず、接しているのは旭橋と安里のみだ。共に市内交通の需要を満たすことを第一にしているのだが、ここまで経路が異なるのは、どういった背景があるのだろうか。

緑の線の沖縄電気軌道は、1914年に首里―大門前(うふじょうのまえ、現在の那覇市久米・東横イン旭橋駅前付近)間が部分開通したのち、1917年に大門前―通堂の全線開通を果たした。県鉄より8年も早く開通した沖縄電気軌道は、沖縄県で初めて走った鉄道であった。しかしながら、バス交通の発達や電力事情の悪化に伴い、1933年には西武門(にしんじょう、現在の沖縄銀行波の上支店付近、同名のバス停が現存)―通堂間の部分廃止を経て、同年中に残部も廃止されてしまう。たった19年しか走らなかった、幻の電車であった。
電車が走った当時の那覇の中心部は、現在の国際通り周辺ではなく、ゆいレールよりも海側にあった。また、港町の那覇と、かつての王都・首里は別の街として捉えられており、事実1954年の合併までは「首里市」という別の市であった。1406年の尚巴志による琉球統一・首里遷都以来、港町那覇と王都首里を行き来する流れは活発で、1451年には尚金福(しょうきんぷく)王が長虹堤(ちょうこうてい)を築いて短絡ルートを整備するなど、その歴史は古い。沖縄電気軌道は、この流れに沿って、1914年に那覇首里を結ぶべく開通した。そして、その役割は、沖縄電気軌道が廃止された1933年に那覇首里を一直線で結ぶ新ルートとして開通した「国際通り」に引き継がれていく。当時は「新県道」と呼ばれていた国際通りに名がつくのは、「アーニー・パイル国際劇場」という映画館が米軍施政下の1948年に開館してからのことだ(現在の『てんぶす那覇』)。戦後、国際通りを中心として那覇は発展を遂げてゆくが、今度は片側一車線しかない国際通りの渋滞が深刻化してしまう。これを受けてさらに時代が下った2003年、渋滞に悩まされない上空を経由して、ゆいレール那覇首里を結んで走り出した。

このように、那覇首里をいかに短く、早く、楽に結ぶかは、琉球王朝以来の課題であったわけだ。

今度は、沖縄電気軌道の経路に注目してみよう。先の図を拡大し、電停と各駅名を追記した図を以下に示す。

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これを見てみると、通堂から泊高橋までは那覇市内路線として中心市街地を寄り道しながらきめ細かく電停が設けられているものの、泊高橋からは電停も減り、一直線に首里を目指していることがわかる。特に坂下~観音堂間は駅間距離が長く、何もなかったであろうことが窺える。

反対に、ゆいレールは現代那覇の中心たる国際通りの西端(県庁前)と東端(牧志)を抑えてから向きを変え、米軍住宅跡を再開発した那覇新都心の玄関口・おもろまちを経由するため、沖縄電気軌道よりも遠回りして首里に至る。

また、首里終点の位置も大きく異なる。沖縄電気軌道は首里城西方の山の麓でプツリと切れている。首里を名乗るにはいかにも中途半端な立地だが、これは当時の電車が首里城の急峻な勾配を登れず、麓で終点とせざるを得なかったことに依ると言われている。首里の手前に勾配を稼ぐためのクランク状の区間があることも、この区間の勾配のきつさを物語っている。

これに対し、勾配に強いゆいレール首里駅は山を登り切った首里城の反対、首里りうぼう等の商業施設や住宅が集積する、東方の汀良(てら)地区に位置する。ゆいレール首里~てだこ浦西間の延伸開通を2019年春に控え、延伸ルート上には石嶺団地などの住宅団地や、西原町琉球大学など、大規模施設が多く存在するが、いずれも那覇都市圏の構成施設だ。那覇首里を飲み込んで、さらに外側へと拡大していったことがよくわかる。

このように、中心市街地の内陸側・国際通りへの移動、および郊外の開発という2つの要素が、建設年代の異なる沖縄電気軌道とゆいレールとの経路の違いをもたらしたと言えるだろう。経路の違いからその事実が浮かび上がってくるのは、実に興味深い。

 

ゆいレールの真骨頂は「定時性」にあり!

前置きが長くなったが、実際にゆいレールに乗ってみよう。

旭橋駅の有人窓口で路線バス周遊パスについていたゆいレール24時間券を引き換え、券面のQRコードをかざして改札機を開く。ゆいレールは磁気券の取り扱いをやめ、QRコード付きの乗車券と、ICカード・OKICAに統合している。磁気券対応の自動改札機はメンテナンスが大変なので、経費節減を図ったものだろう。

2両編成に2ドアの車両しか来ないため、ホームドアがあるのは全部で4か所だけ。あと1両増結できる設計ではあるが、使わない部分には柵がしてある。もう1両分ホームを延長して2+2の4両編成運転ができるようにしても良かったのではと思うが、その配慮まではなかったようだ。

f:id:stationoffice:20180426004926j:imageコンパクトな駅

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当日は三連休のため臨時ダイヤだった

2003年の開通から15年を経て、海風に晒される那覇ゆえに多少錆が浮いているところはあったものの、全体的には美観を維持していた。

途中駅での折り返しはなく、全列車が那覇空港首里の全線運転であるのもわかりやすい。枝分かれや途中止まりがないというのも、不慣れな旅行客にとってはわかりやすさに繋がる。

待っていると、下り首里行きがやってきた。

f:id:stationoffice:20180426005731j:image赤と黒の車体はシックな印象

f:id:stationoffice:20180426011210j:image首里行きが到着

10分間隔を基準とするが、GWなどの多客期は8分間隔(=60の約数でないので毎時の発車時刻が一定にならない)と、柔軟に増発がなされるあたりも、モノレールならではの機動力がなせる技だ。

那覇空港からやってきた首里行きは、空港からの観光客と、国場川の向かいの住宅地から那覇都心部への乗客で、そこそこ混雑していた。

f:id:stationoffice:20180426011154j:image久茂地川沿いの軌道を行く

次は県庁前。国際通りやリウボウ百貨店に近いため、スーツケースを持った観光客がドヤドヤと降りていく。代わりに、買い物袋を提げた乗客が乗り込む。次の美栄橋はゆいレールでの泊ふ頭最寄駅(徒歩10分)だが乗降は少ない。しかしその次の牧志では国際通りを訪れた観光客が多く乗り込み、米軍住宅跡の再開発地区に大型商業施設が多数立地するおもろまちでも乗降が多かった。浦添方面はバス乗り換えとなる古島では地元客の下車が多く、車内が少し空いた。古島を過ぎて右にカーブすると、ここからは首里への山を登っていく。

f:id:stationoffice:20180426011040j:image勾配をグイグイ登っていく

市立病院前、儀保と進んでいくが、軌道下の建物が段々に建っている様子がよくわかる。このあたりから右奥に首里城が見え始め、コンクリート打ちっぱなしの外壁に沖縄らしい赤瓦を乗せた外観が印象的な沖縄県立芸術大学が迫ってくると、大きく左カーブして現在の終点・首里駅に滑り込む。現在は上り那覇空港行きの2番線しか使っていないため、将来の下りてだこ浦西行きホームとなる1番線に到着する電車はない。

f:id:stationoffice:20180426011907j:image首里駅は上り2番線へ到着

f:id:stationoffice:20180426012024j:image現在の終点・首里駅

f:id:stationoffice:20180426011947j:image石嶺方面への軌道が既に接続されている終端部

f:id:stationoffice:20180426012117j:image折り返し那覇空港行きが首里駅2番線へ到着。首里城正殿の屋根が見える

首里駅から首里城前への沖縄バス【7】【8】首里城下町線の模様は前回記事をご参照いただきたい。

首里城見学ののち首里駅まで戻り、再びゆいレールに揺られた。行きと同じく古島、おもろまち牧志での乗降が目立ち、観光客から地元客まで幅広い利用があった。首里城帰りの観光客は牧志で多く降りていったことから、ゆいレールを利用し首里城国際通りをセットで観光するのが定番の流れになっているようだ。

県庁前で降りた乗客は地元客が目立ち、駅からデッキで繋がるリウボウ百貨店へ吸い込まれて行く流れも太い。久茂地川とリウボウ百貨店に挟まれた狭いスペースに押し込められたかのような県庁前駅はカーブの途中にホームがあり、見通しが効かないこともあって余計に人の密度を高く感じる。地元客の流れに乗って、僕らも県庁前で下車した。

f:id:stationoffice:20180426124051j:image地元客と観光客でごった返す県庁前駅

県庁前駅からは国際通りと反対の方向へ歩き、ビジネス街・松山の真ん中にある定食屋を目指した。首里城観光の模様と合わせ、この辺りは次回にまとめたい。

 

・夜に空港へ向かう外国人観光客

夜の国際通りをそぞろ歩き、沖縄名物アメリカンステーキを堪能した後、再び21時頃のゆいレール旭橋駅へ向かった。

ホームに立つと、那覇空港からやってきた下り首里行きが到着したところ。荷物を抱えた乗客が立っているのが目立ち、県外から帰ってきた地元客か、夜の便で降り立った観光客が半々といったところか。

奥武山公園(おうのやま―)でのジャイアンツのキャンプのPR広告がラッピングされていて、目を引く。モノレールは都市の上空を縫うように走るだけに、乗客はもちろん、道を歩いていても、目立つラッピング広告が施されたモノレールは実に目立つ。

f:id:stationoffice:20180427112634j:image街中でも目立つジャイアンツラッピングモノレール。空港発は夜でも混雑する

上り那覇空港行きは空いてはいたが、スーツケースを抱えた外国人観光客が目立った。21時過ぎともなると国内線はほぼ終了していることから、これから出発する便となると、やはり長距離の飛行となる国際線の乗客であろう。長距離のフライトに備えてか、座席で寝入っている乗客が多い。モノレールの運行時間帯は深夜出発の国際線にも対応可能であり、外国人観光客にとっても全てが空港まで行くモノレールはわかりやすく、頼りにされている様子が窺えた。

さて、こんな時間にモノレールに乗っているのは、旅先でスーパーに寄るのを旅のお約束としているからだ。こうしたスーパーは都心部に少なく、若干離れた郊外へ向かう必要がある。沖縄ではメジャーなスーパーマーケットチェーン、かねひでの壺川店へ向かうべく、旭橋から1つ空港寄りの壺川で下車。スーパーの模様は次回にまとめる。

壺川駅からかねひでまでは数分歩いた。壺川駅前は小さなロータリーになっており、那覇バスターミナルがすぐ近くなのでバスの乗り入れこそないものの、タクシーが数台待機していた。モノレールは壺川駅の南側で空港方面へと逸れていくため、壺川駅の真下から本島南部へ向かう国道329号への中継地点になっているのかもしれない。

f:id:stationoffice:20180427112804j:image小禄方面への帰宅客と国際線出発の航空客が入り混じる夜のモノレール

f:id:stationoffice:20180427112826j:imageモノレール通勤が前提の高層マンションが立ち並ぶ壺川駅

 

・モノレール+バスのさらなる連携強化を!

 1日かけて那覇の街をゆいレールで訪ね歩いたが、痛感したのはやはり道路渋滞に惑わされないモノレールの速さと定時性の高さだ。

例えば、国際通り西端の県庁前から東端の牧志まで、モノレールなら僅か2駅・4分で走ってしまうが、バスだとモノレールよりも頻繁には来るが12~15分ほど要する。モノレール開業以前は首里城から那覇都心まで30分を要したというから、モノレール開業で駅から首里城までの徒歩の時間を含めてなお半分に短縮されたことになる。道路渋滞の影響を受けないモノレールは、それだけでバスよりも速く走れるのだ。

さらに、バスだと「時刻通りには来たが、目的地まで時刻通りに走るとは限らない」ことが多々あるのに対し、モノレールではその不安が全くないことも、モノレールの大きなメリットだ。「乗ったはいいが、いつ着くのかわからない」中で乗り続けるのは、乗客にとってはストレスでしかない。

面で広がる街を1本のモノレール線ではネットワークしきれない以上、速達性・定時性に優れるモノレールと、道路さえあれば走れる機動力に優れるバスが連携してこそ、利便性の高い公共交通ネットワークが形成できる。しかし、残念ながら今の那覇はモノレールとバスの独立性がまだまだ高く、連携が進んでいるとは言い難い。

モノレール開業当初こそおもろまち駅前広場を活用したモノレール・バスの連携が模索されたが、結局おもろまち折り返しのバスは減少傾向にある。これは、そもそもの運賃制度がモノレール・バス乗継を前提としておらず、乗り継ぐと初乗り運賃が2回かかって割高になる上に、時短効果が10分程度とそこまで際立たないせいだ。そのため、歩行者が多い上に自動車の交通量も多い国際通りに、乗客を数人しか乗せていないバスが集中するという結果になっている。

f:id:stationoffice:20180427113306j:image夜になっても人波が絶えない片側一車線の国際通り牧志経由の定時運行は難しい

これを解決するには新潟市の事例が参考になる。那覇と同様に各地からのバスが都心部に集中し、空のバスが数珠繋がりになっていた新潟市は、都心部を基幹系統に集約し、数か所の乗継地点で支線へと乗り継ぐ方式に2015年に移行した。これによって、バスの数珠つながりを解消してスピードアップにつながったばかりでなく、効率化した余力を支線に振り向け、支線を増発することにもつながった。積雪時の乗り継ぎの寒さ等、雪国ならではの課題もあるものの、ICカード乗車券の導入によって乗り継いでも運賃を通算することが容易になり、まずまずの滑り出しを見せている。併せて、新潟駅だけでなく、中心市街地の外延にあたる白山駅亀田駅でもJR乗り継ぎの利便性を高めたことで、「いつ着くかわからないバスに乗り続ける」スタイルから、「市街地の近くまで電車で行き、そこから市街地へのバスに乗り継ぐ」スタイルへの移行を促し、目的に合った交通モードを利用者が選択できるようになった。

新潟市の場合は、バスは新潟交通、電車はJRに事業者が集約されていたことで、利害関係の調整もやりやすかったものと思われるが、「都心部ゆいレール・郊外の乗継地点からはバス」という乗り継ぎ前提の仕組みに、那覇も移行すべき時期ではないか。既にゆいレールとバス4社でOKICAの導入を済ませているため、乗り継ぎ割引のシステム構築は一からしなくてもよいし、赤嶺駅おもろまち駅、延伸区間の終点にあたるてだこ浦西駅にはバスターミナルが設置されているため、ハードの整備もあらかた終わっている。

課題としては、市内線こそ那覇バスにほぼ集約されているものの、市外線は琉球バス交通那覇バス・沖縄バス・東陽バスの4社が並立しており、利害関係者が多いことだ。

もっとも、近年はOKICA導入や共通フリーパスの発売などを通して、協調関係を構築しつつある。OKICAは地方ICカードにしては多機能な部類で、モノレール・バスの定期券を最大3社3路線まで搭載できる。バス・モノレール・バスといった定期券も一枚にできるため、乗り継ぎの負担を軽減しているのだ。

それでも、近年のバス運転士の不足や、国際通りに飽和するバスの削減による渋滞の緩和など、4社共通して乗り越えなければならない課題が多いのも確か。

f:id:stationoffice:20180427113958j:image夜の那覇BTで発車を待つ90番具志川行き。那覇BT発の最終は23時過ぎと、本土の電車に引けを取らない

f:id:stationoffice:20180427114014j:image実証実験の継続が決まった那覇〜コザ間の急行バス。市外線を運行する3社が力を合わせる

 

これを踏まえての自分の考えは、沖縄編のまとめとなる第10回にまとめることとしたい。

(つづく)

8.沖縄バス【7】首里城下町線[沖縄]

 沖縄編8回目にして、漸く当ブログのタイトルでもある「駅」が登場(まだゆいレールには乗らない)。このブログは基本的に鉄道旅行記を目指しているが、第1回からずっと沖縄バス旅を綴っていたため、なかなか鉄道が登場しなかったが、満を持して鉄道(の要素)が登場。しかし、今回はかなり濃厚なバス回です。

 

・複雑怪奇な那覇市内バス事情

前日までに宜野湾市宇地泊まで移動していたため、まずはバスで那覇市内へ。

f:id:stationoffice:20180419204328j:imagef:id:stationoffice:20180419204349j:imagef:id:stationoffice:20180419204407j:image

宜野湾市浦添市の境にあたる宇地泊。社会実験で走る那覇〜コザ間急行バスも停車する主要バス停の一つ。沖縄本島最北端の国頭郡国頭村、その名も奥(おく)集落までは112kmとある

 

「どうせ時刻表通りに来ないので、来たバスに適当に乗る」という乗り方にも慣れてきた。那覇市内の宿をゆいレール旭橋駅近くに取っていたため、まずは旭橋駅まで行く。旭橋駅那覇バスターミナルに隣接しており、連絡通路で直結しているという関係。

一本目に来たバスは「牧志経由 那覇バスターミナル行き」だったが、二本目に「久茂地経由 那覇バスターミナル行き」が続行してきた。ここで選んだのは二本目の久茂地経由。

一本目の牧志経由=即ち国際通り経由は、観光客で賑わう国際通りを、東端の牧志から西端の県庁前まで縦断していくため、どうしても国際通りを抜けるのに時間がかかる。二本目の久茂地経由は、県庁前まで道幅の広い国道58号を経由していく上にバス停の数も少ないため、県庁前・旭橋方面へ直行するのであれば、久茂地経由の方が早く着くからだ。

参考までに、牧志経由と久茂地経由の関係、および市内線と市外線、ゆいレールの関係を簡潔に示した図がこちら。

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牧志」を名乗るバス停はあるが、「久茂地」というバス停は無い。これは、バス停名でいう若松入口、農林中金前辺りが久茂地川に沿ったビジネス街となっていることから、単に「久茂地」と言えばその辺りを指す地名として十分通用するためだ。

ややこしいことに、リウボウ百貨店が入る複合商業施設「パレットくもじ」は、久茂地経由だけでなく牧志経由も両方通る「県庁北口」が最寄り。

また、国際通り上の牧志(市外線)/てんぶす前(市内線)、松尾(市外線)/松尾一丁目(市内線)はほぼ同じ位置にありながら名称が違ったり、バス停の「安里」はゆいレールでは「牧志」が最寄りだったりと、もはやここまで来るとややこしいを通り越して難解でしかない。せめて、バスの「安里」はゆいレールに合わせ、「牧志駅前」に改称すべきだろう。

 

このように、行き先は同じでも経由地が異なるというややこしさをカバーするため、沖縄本島の路線バスはフロントガラスに経由地を示した副標を掲出する。「牧志経由」は青、「久茂地経由」は黄の副標が必ず掲出されるため、遠目でも副標の色を見れば経由地がわかるようになっている。他にも、ゆいレールおもろまち駅前を経由するものは「おもろまち(赤)」、開南経由(白)などの種類もあるが、詳細は割愛する。

 

f:id:stationoffice:20180416205904j:image牧志経由(青)

f:id:stationoffice:20180416205755j:image久茂地経由・おもろまち経由(黄+赤) 複数掲出する場合もある

 

同じ系統でも、時間帯によって牧志経由と久茂地経由が入れ替わる系統もある。例えば、往路で乗った120番は、朝夕の通勤時間帯は久茂地経由、日中は牧志経由となる。朝夕は県庁や久茂地川沿いのビジネス街へ直行する需要が多いため久茂地経由、日中は買い物客や観光客が国際通り沿いのバス停を多く利用するため牧志経由と、需要に合わせて柔軟に経由地を変える。

また、日曜日の日中は国際通り歩行者天国となるため、ごく一部を除いて牧志経由は久茂地経由に変更される。これも注意が必要だ。

同じ番号でも経由地が違うのを区別するには、行き先に小さく添えるだけではわかりにくい。そこで、経由地を色で示した副標が生きてくるのだ。

この副標掲出は那覇市内に乗り入れる全ての路線バスに共通した取り組みであり、会社の違いが案内の違いになっていないのは評価すべきだとは思う。

しかしながら、前述したように問題点が少なくない上に、外国人向けの案内は、特に副標には全くない等、十分でない。

定時運行率の向上、SuicaICOCA等の全国交通系ICカード対応などのハード面の改善もさることながら、停留所名の統一、ゆいレールとの連携強化、副標への英字併記など、ソフト面での改善も進めていってもらいたい。

また、市外線が前乗り前降り(中扉は使わない)、市内線が中乗り前降りと乗降方法が違うことも、特に那覇市内では非常にわかりにくい。市内線か市外線かを区別する方法は系統番号を見るしかなく、20未満なら市内線、20以上なら市外線となるものの、実質的にはバスの扉が開くまでわからないと言って良い。

これら問題に対する私見については、沖縄編の最終回でまとめたい。

f:id:stationoffice:20180419204742j:image読めないシリーズ

f:id:stationoffice:20180419204907j:imageまさに沖縄の大動脈

 

・「那覇駅」を偲ぶ

往路の120番は牧志経由だったため、賑やかな国際通りをそろそろと通り抜けていったが、復路の32番は久茂地経由のため、ビジネス街でもある那覇市内の国道58号を、スピードを上げて走り抜けてゆく。国際通りの裏手にあたる若松入口、農林中金前などは久茂地経由しか通らないため、ぽつぽつと乗客が降りていく。120番や77番では殆ど見なかったOKICA利用者も、さすがに那覇市内ともなれば割と見かける。

琉銀本店前で国道58号から分かれ、国際通り西端の県庁北口を過ぎれば、ほどなく終点、那覇バスターミナルに至る。

f:id:stationoffice:20180419205042j:imageパレットくもじとゆいレール県庁前駅

 

那覇バスターミナルは訪問時点で建て替えが佳境を迎えており、躯体が姿を現していたものの、路上の降車場で降ろされてしまった。路上故、乗客を降ろしたバスはすぐに回送となって走り去っていった。

 

那覇BTは、戦中まで本島中南部を走った軽便鉄道沖縄県営鉄道那覇駅跡地に位置する。戦後、米軍占領下にバス交通の拠点となるべく駅施設が撤去され、急ごしらえのバスターミナルが設置されて以降、基本的にはその時代の施設を引き継いできたが、現在は旧施設は全て解体され、「国際通りの賑わいを旭橋まで導く」ことを目標に、目下建て替え・再開発が進められている。新バスターミナルのオープンは2018年秋、商業施設を含めたグランドオープンはその1年後を予定しているそうだ。

那覇BTは戦前から那覇の交通の起点となる場所だっただけあって、今でも数多のバスが起終点とする要衝ではあるものの、現代の那覇の中心地は国際通りの辺りに移動しており、那覇BTはやや南西にはずれた場所となってしまった。しかし、かつては那覇BTから海側の通堂(とんどう)にかけてが最も賑やかな場所であり、沖縄軽便鉄道と同時期に走った路面電車、沖縄電気軌道もこの通堂を起点に首里までを結んでいた。その通堂から久茂地川を隔てた場所にかつての那覇駅があり、そこに架かっていた橋が「旭橋」であった。この橋から名を取ったのが、ゆいレールの「旭橋駅」というわけだ。

f:id:stationoffice:20180419205141j:imageペデストリアンデッキが伸びる旭橋駅。隣では那覇BTが建築中

 

終戦から58年を経た2003年、再びこの地にゆいレールという鉄道が復活し、沖縄電気軌道と同じように首里へ向かって走り出したということに、感慨を抱かずにはいられない。同じような感慨を頂いた沖縄県民も多いことだろう。解体前の旧BTには那覇駅の遺構も一部残存していたというが、建て替え工事中とあっては偲ぶべくもない。鉄道のターミナル駅らしい、頭端部に向けて膨らんでいく三角形の敷地に、かつての駅らしさを窺えるくらいだ。

そのような歴史を持つ旭橋駅からゆいレールに乗り、まずは首里を目指した。ゆいレールの模様は次回にまとめる。

 

・モノレール⇔バスの連携を模索する【7】首里城下町線

ゆいレールの終点・首里駅から【7】首里城下町線に乗り換え、首里城を目指した。

f:id:stationoffice:20180419205313j:image南国らしい色使いの改札口

f:id:stationoffice:20180419205334j:image道路を跨ぐ首里駅舎。バス停は駅舎の真下にある

 

【7】【8】首里城下町線は、徒歩15分ほどかかる首里城前とゆいレール首里駅を結ぶコミュニティバスとして運航を開始した経緯があるため、モノレールの一日乗車券等を提示すると20円の割引を受けられる。【7】はおもろまち駅前・久茂地経由那覇バスターミナル発着、【8】はおもろまち駅前折り返しで、首里方の終点はゆいレール延伸区間の「石嶺駅」(首里駅の次)に近い「石嶺団地東」となる。同じように首里地区と那覇市中心部を結ぶ系統とルートも若干異なり、こちらは首里城を構成する施設でありながら首里城公園を若干外れた「寒川水樋川前(すんがーひーじゃーまえ)」や「石畳入口」を経由していく。
しかしながら運行本数は1時間1~2本と、那覇市内でもっとも有名な観光地へのアクセスとしては本数が少ないために観光客の利用は多くなく、運賃割引の認知も低い。「首里城前」の一つ手前、「首里城公園入口」までなら他系統を併せ1時間4~5本に増えるが、間隔は一定でなく20分程度待ち時間が発生する場合があり、また【7】【8】の運賃は150円(乗継割引で130円)なのに対し、それ以外(【14】【17】【46】など)では那覇市内均一運賃の230円が適用される上、【7】【8】以外ではゆいレールとの乗継割引もない。
バスがこのような錯綜した状況であるため、首里城へのアクセスは、ゆいレール首里駅から交通量が多く、歩道も狭い龍潭通り(りゅうたん―)を15分程度歩くのがメインとなっており、世界遺産首里城への観光ルートとしては不十分な状況と言わざるを得ない。

f:id:stationoffice:20180419205547j:imageどの系統も本数は多くない

首里駅エスカレーターを降りたところにバス停があるが、駅構内からして十分な案内はない。首里城方面と石嶺方面では降りる階段が異なるが、その案内もない。バス停のポールに貼られた時刻表を覗き込んで初めて、5分後くらいにバスが来ることがわかる程度だ。

始発の石嶺団地東から2kmも離れていない為、ほぼ定刻に【7】首里城下町線・那覇バスターミナル行きはやってきた。市内線なので中扉が開いた。沖縄に来て初めて中扉から整理券を手に乗り込んだが、市外線の前乗り前降りに馴染んでいただけに新鮮な感覚だ。首里駅前から乗り込んだのは、僕とO君以外にもう1人。

土日にしては観光客の利用はやはり少ない。首里駅前から首里城前までは徒歩15分の距離だけに乗ってしまえばあっという間で、5分足らずで到着。降りたのは僕らだけだった。

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f:id:stationoffice:20180419205830j:image首里城前のバス乗り場。タクシーが屯する

首里駅前から首里城前を通り抜けていく乗客は他に5人ほど居た。石嶺方面から那覇市街方面へと乗りとおしていく利用と思われるが、首里城近辺の観光地を経由した上でおもろまち駅へ寄り、さらに久茂地経由なので市街の外側を回ってようやく那覇BTに至るという大迂回経路になるが、乗客は目的地に着きさえすればいいのか、それともおもろまちへの需要が思ったよりもあるのか…。乗り通せばわかることだが、真相は分からない。
ともあれ、バスに乗れば、守礼の門の目の前で降ろしてくれるのはありがたい。守礼の門の前は小さなバス・タクシー乗り場になっていて、タクシー程度であれば十分転回もできる。バスの本数が少ない上に、首里駅までは起伏が激しく交通量も多い道を歩くことになるため、タクシーの需要は高いようだ。
このような状況であれば、8分間隔のモノレールに接続して、モノレール利用者は運賃100円程度の首里駅前~首里城前のシャトルバスを、観光シーズンに運行するだけでも、だいぶ首里付近のクルマを減らすことができるように思うが、どうだろう。

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f:id:stationoffice:20180419210012j:image本数こそ少ないが、バスを降りれば目の前は守礼の門だ


少なくとも、【7】【8】の首里駅前~石嶺団地東と、おもろまち駅那覇BTの区間は既存系統の付け足し程度の役割しかないため、削減しても問題ないように思われる。既存系統で代替可能な区間を減らし、おもろまち駅~寒川水樋川前~首里城前~首里駅前の区間に本数を集中させた方が、よほど観光の足として活躍できるだろう。おもろまち駅沖縄県立博物館・美術館(『万国津梁の鐘』の本物がある)の最寄りでもあり、回遊性も高まるはずだ。

しかしながら、バス・モノレールの運賃割引を行ったり、寒川水樋川前など既存系統が立ち寄らない観光スポット最寄りの独自区間を持つ【7】【8】は、数多の系統が入り乱れる那覇市内にあって、先進的な試みが多く見られるのは評価すべきところ。

特にバス・モノレールの割引は他の系統の都心直行を削減し、より効率的な交通体系の構築を図る上で不可欠な施策になる。那覇市も福岡市や新潟市のように、都心直行のバスを減らし、駅での電車乗継や幹線バス乗継にシフトしなければならない時期に来ていると思う。ただでさえ混雑する国際通りを、数人の乗客しかいないバスが何台も連なって走る今の状況が最善とは思えないし、おもろまち駅前広場も当初の見込みほどには活用されていない。しかしながら、ゆいレールの延伸区間ではバスとの連携が積極的にはかられる予定になっている。特に終点・てだこ浦西駅における沖縄自動車道経由の高速バスとの連携は、自分も大いに気になるところ。

f:id:stationoffice:20180419210116j:image沖縄のシンボル

 

首里城下町線の取り組みは、その試金石なのかもしれない。 

 

(つづく)

7.琉球バス交通【55】牧港線[沖縄]

「クゥ~~ッ、コレですよ、コレ。この『サロンパス』感」

ビールジョッキを傾け、うまそうに炭酸の液体を喉へ流し込むO君。しかし、彼が飲んでいるのは決して「ビール」ではなく、ましてや「サロンパス」でもないが、とある「ビア」である。

 

* * *

 

・はじめてのルートビア

 「ルートビア」という飲み物をご存知だろうか。東京をはじめ、本土ではあまりメジャーではないが、沖縄やアメリカではコーラやサイダーのようにごく一般的に飲まれている、炭酸飲料のひとつ。その名の通り、禁酒法施行下の19世紀アメリカにおいてビールの代用飲料として生まれ、「ルート」とはroot=リコリス=甘草、ハーブの一種のこと。名前からして、てっきりアメリカのロードサイドで提供されるからroute=国道のことかと思っていたが、違った。当沖縄編でもちょいちょい登場する「A&W」の名物として知られ、今や沖縄ならではの名物になりつつある。

「一言で言えば、『飲むサロンパス』です」とはO君の言葉。どんな味だか全く想像がつかず、訳が分からないまま店に向かった。

 

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77番を宇地泊で降りると、目の前はアメコミキャラの大看板が建つ、A&W牧港店。1号店の屋宜原(やぎばる)店は米軍施政下の1963年開店と、あのマクドナルド銀座1号店より8年も早い。屋宜原店はイオンモール沖縄ライカムの近くにあり、決して市街の中心とは言えず、事実住所は中頭郡北中城村である。そのようなロードサイド型店舗を50年以上前に出店したのだから、米軍施政下でいかにモータリゼーションが急速に拡大したかがわかろうかというもの。

沖縄県民はA&Wを「エンダー」と呼ぶ(「ンダ」にアクセント)。これは、英語式の「エーンドゥ ダーボゥ」という発音をカタカナ式に改めたものだ。米兵をはじめとして、生きた英語が飛び交う環境にあった沖縄ならではの略し方であるように思う。

屋上の看板をよく見ると、「ドライブインレストラン」とある上に「ROOT BEER」とある。つまり、ドライブインレストランである前に存在そのものがルートビアなのだ。この時は気にも留めなかったが、この後、看板の意味を思い知ることになる。

 

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敷地に入ると、ドライブスルーのようでドライブスルーでない不思議な光景が広がっていた。店舗からガソリンスタンドのような大屋根が伸び、屋根の下には遠隔で注文できるようにメニューとマイクが備え付けられているものの、どういうわけか車止めが中央にある。つまり、行き止まりになっていて、スルーできない。ふと見ると、店員さんがハンバーガーを持ってきて、そのスペースに停めている車の窓から差し入れていた。どうやら運転しながらではなく、車に乗ったまま食べるためのスペースのようだ。観察していると、ハンバーガーを受け取ってすぐ発車する車もあり、ドライブスルー的な使い方をする人もいる様子。

後で知ったことだが、このような形式はアメリカで「drive-in」と呼ばれ、かの地では一般的なものだそう。日本における「ドライブイン」とは全く違うもので、同音異義となっているのが興味深い。

 

・「ルートビアのおかわりはいかがですか〜」

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初めてルートビアを口にした感想は、「訳が分からない」といった感じ。微炭酸で刺激こそ控えめながら、喉の奥からハーブ系・・・いや、サロンパスそのものの、ある種爽快感のある香りが、炭酸に乗って喉の奥からどんどん湧き上がってくる。最初こそ舌がパニックを起こしていたが、二口三口と飲んでいくにつれ、この湧き上がる爽快感がどんどん増してくる。うん、「ALL AMERICAN FOOD」の名に恥じない。これはハンバーガーと合うぞ・・・!!

メインのハンバーガーは、「ALL AMERICAN FOOD」というキャッチフレーズからして、大きさもアメリカンなのかと思っていたが、思ったより小さめ。大体ビッグマックくらいの厚さの中に、パティ、ローストチキン、オニオンリング、トマト、レタスなどなど、割と小さめの具がいくつも入っている。齧る度に出てくる具が変わるから、ひとつのハンバーガーを食べていても、飽きないのだ。

ルートビアハンバーガーの幸せな循環を楽しんでいたら、思いもよらぬ声がかかってきた。

 

ルートビアのおかわりはいかがですか~?」

 

店内を見れば、ホットコーヒーのおかわりの如く、店員さんがルートビアのピッチャー片手に回っているではないか。他のお客さんも「あぁ、お願いします」といった感じで、何の違和感もなく空のジョッキにルートビアが注ぎ込まれてゆく。僕らの空ジョッキにも、再びルートビアが注ぎ込まれた。そうしてまた、ルートビアハンバーガーの幸せな循環が始まってゆく。

「おかわり自由」とはいえ、まさか店員さんの側からおかわりを注いで回るとは思わなかった。そういえば、店の看板が示しているように、ここは「ドライブインレストラン」である前に「ROOT BEER」、そう、ルートビアそのものだったのだ。

こういうことだったのか・・・。新たに注がれた独特の香り漂うルートビアを口にしながら、表の看板を思い返していた。

 A&W 牧港店

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・文字で見る沖縄論壇の迫力

エンダーには琉球新報沖縄タイムスが置いてあった。沖縄メディアの特異性は噂では聞いていたものの、大学図書館にでも行けばあっただろうが、学生当時は沖縄にそこまで興味もなかったので、東京で沖タイや新報を手にとって読む機会はなかった。それが、エンダーに置いてあったのだ。

手に取ると、琉球新報佐藤優氏のコラムが目に入った。名護市長選の直後だったため、社説を含め、基地容認派と目される候補の当選に関する考察一色だった。眼力が印象的な佐藤氏だが、母が久米島出身で、つまりは自称しているように、ウチナンチューのハーフだという。どうりでぐりっとした目であったわけだ。

しかし、その鋭い主張で知られる佐藤氏にしても、語気が尋常になく鋭かった。

「ヤマト※に対してしっかり主張してゆかなければならない」(※沖縄から見た本土および本土の人間のこと)とか、「それがヤマトの血とウチナンチューの血を半分ずつ引く自分の責務なのだ」とか、とにかく「ヤマト」という言葉が頭から離れない。

「ヤマト」とは大和朝廷を起源に持つ皇統のことであり、江戸時代の薩摩侵攻に至るまで別の国であったわけだから、当然ヤマトという言葉の中に沖縄県自体は含まない。そして、沖縄県でかなりのシェアを持つ大手地方紙のコラムに、これだけヤマトという、ある種の区別意識を持ったセンシティブな言葉が、これほど多く登場するとは、正直思ってもみなかった。

つまり、沖縄メディアは本土の人間を、「同じ」日本人として認識してはいるが、同時に、ウチナンチューとは「違う」ヤマトの人間だと認識していると思っているのかもしれない。本当に「同じ」日本だと思っているならば、「ヤマト」という言葉を使って、本土の人間のことを対象化して考えないだろう。

彼らにそう思わせるものは何なのか、それが選挙によって顕在化したということなのか。「基地容認派」の勝利は、「同じ」ウチナンチューの中にも、基地容認派という「違う」考え方の持ち主が増えてきたということなのか、そうでないなら何なのか。

「本土」「中央」に対する「離島」「周辺」という概念は、往々にして前者の側に居る者は意識しにくい。異国の香り漂うルートビアのジョッキを傾けながら、日頃読んでいる新聞とはだいぶ違う、舌鋒鋭い沖縄の新聞を黙って読むしかなかった。

 

・アイスクリームもチャンプルー

  チャンプルー文化という言葉がある。沖縄文化を形容する言葉で、かつての琉球貿易が中継貿易で栄えたように「外来の文化をなんでも吸収して、それらをまぜこぜにしてしまう」という意味合いだ。中国式と日本式の城郭建築の特徴を併せ持った首里城正殿などは、チャンプルー文化の典型と言われる。そして、アイスクリームですらもこのチャンプルー文化の影響を強く受けているとは、思いもよらなかった。

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エンダー牧港店から歩いて数分のところに、いまや沖縄名物となった「ブルーシールアイスクリーム 牧港本店」がある。赤青黄の原色の電光がギラギラと光るロードサイド看板に、ブルーにオレンジにホワイトの爽やかなロゴマークは、いかにもアメリケンな空気が漂う。並んでいる客もウチナンチューから黒人一家まで、実に多彩なあたりも、人種の坩堝たるアメリカらしい。

しかしそのメニューを見ると、紫イモ、塩ちんすこうといったいかにも沖縄らしいものから、「田芋(たいも)チーズケーキ」といった本土ではメジャーではない沖縄の産品を使ったもの、それだけでなくストロベリーにバナナといったアイスの定番まで、なんとまあアイスケースがチャンプルー状態なこと。

周りを見れば、米兵の一家が紫イモのアイスを頬張っていたり、アジア系観光客が塩ちんすこうアイスを不思議そうな顔で訝しげに舐めていたり。沖縄という地にかかってしまえば、アメリカのアイスクリームですらもオキナワナイズされて、皆を虜にする不思議なアイスクリームを創ってしまう。これこそチャンプルー文化のあり方だろう。

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自らを「アメリカで生まれ、沖縄で育った」と称するブルーシールアイスクリーム。那覇の街角で頂くのもいいが、アメリカらしい雰囲気の牧港本店に立ち寄れば、より「チャンプルー文化らしさ」を感じられるはずだ。

 

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・定刻で来るわけがない最終バス

 アイスを食べ終わった頃には、22時を回っていた。

ブルーシール牧港本店から本日の宿へ向かうには、国道58号沿いの「牧港」バス停から【55】牧港線で3つ、「兼久原(かねくばる)」で降りればすぐだったが、55番は1時間1〜2本しかない。同じ国道58号沿いの「宇地泊」は本数が多いが徒歩10分。そして、牧港からの55番の最終は22:08。10分遅れくらいなら待ってもいいかと思い、あまり考えずに22時過ぎに店を出た。

バス停に着くと先客が3名。酒を飲んでバスに乗るしかない…といった人もいれば、スマホも見ずのんびりと待っている人もいる。俯きながらスマホをいじっている人がいないあたりは、やっぱり沖縄らしさなんだろう。

10分ほど待ったが、来ない。まあ、そんなもんだろう。

バス停の掲示板を見ると、一応携帯でバスの現在地を把握できるようになっているらしい。使う機会がなかったので使っていなかったが、試しに55番牧港線、宜野湾営業所行きの現在地を検索。

結果、まだ那覇市内にいるらしい。どういうこと?と思えば、何の事はない、ここまで一時間弱かかるはずの那覇市内から、まだ最終バスが出ていないということ。到着予想時刻が一応出ていて、なんとまあ50分遅れ。うん、流石にそれは待てない。

大都市のバスは、遅れが増幅すると、営業所から特発の空車を出し、遅れのバスを一本後の時刻に乗せて運行する。特発を出すことで全体としての定時運行を守るわけだ。

しかし最終バスが50分遅れということは、おそらく一日かけて50分の遅延が積もり積もっていった結果であり、終点に遅れてやってきたバスを、遅れたまま折り返していると思われる。特発を出してまで定時を守るということはしないわけだ。

こんな状態だから、誰も時刻表を当てにしないし、来たバスの乗務員さんに、自分の目的地に行くかどうかを尋ねるのが一番良い。それが一番ストレスがない。だからみんな適当に待っている。

僕らもそれに倣って、来たバスに適当に乗ってみた。確か読谷バスターミナル行きだったと思うが、よく覚えていない。読谷行きなら方向はあっているだろう。

 

「次は、宇地泊、宇地泊でございます」

牧港から交差点を渡って、その次はもう宇地泊。さっきのA&Wの前だ。

ようやく宿に着く。安心して降車ボタンを押した。

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(つづく)

6.沖縄バス【77】名護東線[沖縄]

 「次は、辺野古辺野古でございます」

無機質なテープ音声が辺野古到着を告げる。一人の男性が降車ボタンを押した。

 

* * *

 

・街が連なる東海岸

 往路の120番は恩納村をはじめとした西海岸のリゾート地帯を走ってゆくが、これから復路で乗る77番は主に東海岸を辿っていく。東海岸には目立ったリゾートが少ないが、代わりに沖縄市うるま市といった中都市に、普天間基地や名護市辺野古キャンプ・シュワブをはじめとした、米軍基地も連なっている。人口も西海岸より多く、従って120番は1時間に1本だが、77番は1時間に1~2本と本数もやや多い。しかし77番は120番と違って那覇空港までは行かず、那覇バスターミナルで終点となる。同じ那覇と名護を結ぶ120番と77番とでどういった違いがあるのだろう。

 

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 名護バスターミナルにおける77番の出発は「5番ホーム」。この呼び方からしても鉄道駅のような雰囲気を感じる。最も待合室に近い1番は111番・117番の沖縄自動車道経由の高速バスで、5番ホームは最も遠い。77番は西海岸に位置する名護市街を出るといきなり峠を越えるため、市街地区間が短い。小規模とはいえ市街地が連続する65・66番本部半島線や、国頭村方面へ向かう67番辺士名(へんとな)線の方がまだ利用が多いと思われ、77番は隅に追いやられてしまっているようだ。その実態を示しているかのようで、16:20発の乗客は僕とO君の2名だけ。77番は本数こそ多いが、利用の主眼は沖縄市うるま市あたりの需要に合わせたもののようで、名護における重要度はさほどでもないらしい。

16:20、名護バスターミナル発。沖縄バス77系統、牧志経由那覇バスターミナル行き。

 

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辺野古を行く

名護バスターミナルを出た時こそ貸し切りだったが、名護市街をしばらく走るうちに数人の乗客を乗せた。名護市街の南端にあたる「世冨慶(よふけ)」を出ると、120番がたどる国道58号から分かれ、西海岸と東海岸を隔てる峠道に入っていく。「第二世冨慶」から峠を越えた「二見入口」バス停までは8分を要し、この間に途中停留所はない。それほど険しい峠なのだ。

 

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その峠を抜けると、今や日本人なら誰でも知っているほど有名になってしまった辺野古地区に至る。名護市街とは先述の峠で隔てられており、市街地の連続性はない。むしろ隣の久志(くし)地区を過ぎ、宜野座(ぎのざ)村、金武(きん)町、そしてうるま市に至る方へ市街が連続しているような印象を受ける。従って、名護市街には「あの辺野古がある街」といった空気はまるでないし、当然辺野古にもひんぷんガジュマルに代表される名護市街の空気はなかった。訪れるまで窺い知れなかったことだ。

 

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辺野古の入り口にあたる、その名も「第二ゲイト」バス停の目の前には、あのキャンプ・シュワブ米軍基地のゲートがあった。これまでに見た米軍基地のゲートは、少々奥に入った守衛所にこそ兵士がいるものの、公道に面したところは無人という基地が多かったように思うが、さすがにキャンプ・シュワブのゲートは物々しい雰囲気に包まれて・・・いるわけではなかった。立哨の兵士が数人いるくらいで、厳戒態勢だの抗議の座り込みだのという空気はなかったのは、正直意外だった。

考えてみれば、この普天間基地移設問題が降って湧くまで、辺野古はさほど大きくもない米軍基地があるだけの、ごく普通の集落だった。だから、当然なんでもない時のほうがよっぽど多いわけで、テレビで見る抗議デモや座り込みといったシーンが常時展開されているわけではない。それ以前に、辺野古はごく普通の生活の場。その視点がこうしてバスで訪れるまですっぽりと抜け落ちていたのは、迂闊だったとしか言いようがない。

ただ一つ「それらしい」シーンがあったとすれば、明らかに地元の人ではないような肌の白い男性が、名護市街で買ったと思しき買い物袋を提げ、辺野古バス停で降りていったことくらい。おそらくは、何かしらの活動に備え、辺野古から名護へ物資の買い出しに出かけたのだろう。辺野古にはコンビニはあるが、スーパーマーケットの類はない。

 

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 ・人もバスも雨で遅れる

辺野古を過ぎ、宜野座村に入ったあたりで雨が降ってきた。部活帰りの時間にあたり、高校生が乗り込んでくるものの、彼らは一様に傘はおろか、折りたたみ傘すら持っていない。亜熱帯に位置する沖縄の雨はスコールのような通り雨が多く、使うかどうかわからない傘を持ち歩くよりは、多少雨宿りをしてやりすごすのが県民性なんだとか。その光景を目の当たりにして納得。まあ、こういった行動がウチナータイムの概念に繋がっているんだろう。「雨が降って遅れる」のはみんな同じだし、そしてバスも例外ではない。名護バスターミナルを出たときは定刻だったが、うるま市石川地区にさしかかったあたりで、雨も加わって渋滞となり、だんだん遅れ始めてきた。

うるま市は旧石川市・具志川(ぐしかわ)市・中頭(なかがみ)郡与那城(よなしろ)町・勝連(かつれん)町の2市2町2005年に合併して誕生した。平成の大合併において、一島一自治体となっているところが多かったこともあり、沖縄県はあまり合併が多くなかったものの、本島では南城(なんじょう)市(※2006年、島尻郡佐敷町・知念村・玉城村・大里村が合併して発足)と並ぶ大型合併となった。那覇市沖縄市に次ぐ沖縄県第3位となる人口12万を擁する。ちなみに、「うるま」とは「ウル(=サンゴ)マ(=島)、「サンゴの島」という意味合いの、沖縄本島を指す雅名。こういった地域性を出しつつ、統一感のあることばを選んだ新市名はなかなかなく、いいネーミングだと思う。「沖縄美ら海水族館」といい、沖縄はネーミングセンスが秀逸だ。

名護から1時間10分を経て、77番も石川のあたりから乗降とも活発になってくる。名護から乗り通してきた人が降りたり、市内線のように2~3停留所だけ乗って降りる人がいたり。傘を持たない沖縄県民とはいえ、雨が降ると乗降がもたつくのは事実のようで、雨と渋滞が重なって遅れが増していく。しかし、この辺まで来ると77番以外にも同じ経路をたどる別系統が束になってきて、1時間1~2本の77番以外にも使えるバスは来るので、あまり遅れは気にならないよう。もっとも、人もバスも遅れているのは同じだから、偶々タイミングが合っているだけなのかもしれないが・・・。

米軍基地華やかりしころの繁栄ぶりを物語る、「琉映前」「石川市場前」といった名前のバス停が続く。しかし「琉映」なる映画館どころか、今の石川には映画館自体がなく、石川市場は県営住宅に姿を変えており、名護と同じような中心街の変容が起こっている。もっとも、この2つのバス停はそれなりに乗降があり、今でも中心性が衰えたわけではないようだ。その施設そのものがなくなってもバス停や駅には名前が残るといったことは珍しくなく、東京でも東急東横線学芸大学・都立大学駅西武新宿線都立家政駅といった例があるのは有名だ(3駅ともその施設は現存しない)。今でも石川では「琉映前」「石川市場前」といえば、中心街として名が通るのだろう。

うるま市を抜けると沖縄市に入る。もっとも、「沖縄市」ではあまりにぼやけた地名でしかないため、「コザ」といったほうが通りがよい。「コザ」とは、今のコザの中心街の地名である「胡屋(ごや)」と「古謝(こじゃ)」が混同されて命名されたといわれる、米軍「キャンプ・コザ」に由来する。そのため漢字がない。越来(ごえく)村→1956年の米軍施政下にコザ村と改称→同年市制施行しコザ市となる→沖縄返還後の1974年に隣の美里村と合併し「沖縄市」が発足。世にも珍しいカタカナ市名は消滅してしまったものの、現在でも「コザ」といえば沖縄市街の名として通り、道路標識にもコザと書かれる場合は多い。現在の沖縄市は人口14万人を数える、沖縄県第二の都市に成長した。

地名の由来が米軍キャンプであるように、コザは米軍基地前の街として大いに栄えた。現在は廃業してしまったが、米軍需要を当て込み、「京都観光ホテル」などというホテルもあったそうだ(もちろん、このホテルとKYOTOは一切関係ない)。第一線で戦う兵士が、限られた休暇をコザの街で過ごすのだから、その当時の消費と言ったら並大抵の勢いではなかったのは想像に難くない。彼らはわずかな休みとそこそこの金を持ってコザの街に繰り出し、有り体に言えば酒と女と・・・ドラッグに手を出した者もいただろう・・・精気を養って、再び第一線に戻っていく。その舞台がかつてのコザだった。

現在のコザは曲がりくねった路地裏の妖しい雰囲気といい、石川以上に米軍基地華やかりしころの面影を残すものの、中心市街は残念ながら活気がない。それでも建物の密度はいまだ濃く、中心街の「コザ十字路」や「胡屋」では、バスの乗降も非常に活発だ。ビルの外壁をまるごとキャンバスに見立てたアートが目立つが、これがストリートアートの一種として観光資源になりつつあるらしい。

 

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コザまで来ると77番以外に4~5系統が束になり、バスの本数は名護と比較にならないほど多くなるものの、それに伴って「乗客の目的地に行かない」バスも増えてくる。市街区間に入ってもなお前乗り前降りのため、降りる乗客がいる場合は運転士が車外スピーカーで「降りる方おられますのでご乗車の方少々お待ちください」などとアナウンスする。しかし気になるのは、待っている乗客が「伊佐とまりますか」「このバス普天間行きますか」などと、運転手に経由地を訪ねることが非常に多い点。これについては、次の記事で明らかにしたい。

 

・ついに30分遅れ

コザ市街を抜けると、目指す宜野湾市の宇地泊(うちどまり)バス停はもうすぐ。本島中部の消費の中心となりつつあるイオンモール沖縄ライカム(「ライカム」=RYukyu COMmand headquarters=琉球米軍司令部がこの地に置かれていたのが由来。コザと同じく米軍起源の地名)や、日本初のロードサイド型ショッピングモールとして知られる「プラザハウス・ショッピングセンター」が窓辺に広がる。沖縄に展開するアメリカのハンバーガーチェーン、「A&W」の1号店(沖縄進出はマクドナルドの銀座1号店より5年早い1963年)もこの並びにある。宜野湾市の伊佐(いさ)で西海岸をたどってきた国道58号と330号が合流し、従って77番と120番も伊佐から那覇までは同じ経路を辿る。

 

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そして、これだけロードサイド店舗が集積する国道330号・58号は渋滞も今までで一番激しく、宇地泊バス停に着いた時には30分遅れになっていた。定刻であれば、16:20に名護を出て2時間25分・107停留所を経て、18:45に着いていたはずであるが、到着したのは19:15。約3時間、雨と闇で景色が見えず、渋滞にはまりながらワンステップバスのシートに座り続けるのは、普通列車の旅に慣れているはずの自分であっても、なかなかしんどいものがあった。

 

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街々を縫って走り、乗客も多いからこそこうして遅延しやすいのが77番なわけであるが、120番と違って空港に行かないのも、この遅延しやすいのが原因だろう。77番の経路は沖縄自動車道と比較的近接しており、77番よりもよっぽど速くて正確な高速経由のエアポートバスで代替可能なため、77番を空港に伸ばす理由がない。

反対に、120番の経路は沖縄自動車道から遠く、人口も少ないのでエアポートバス単体では成立しづらいことから、集落を縫って走る国道58号経由のバスに空港連絡の機能も兼ねさせているのだろう。往路での120番の遅延も10分に留まっており、77番よりも定時性は高いといえる。

 

* * *

 

バスを降りると、雨は上がっていた。やはり通り雨だったようだ。くたびれてバスから降りた僕とO君を、念願の「A&W」牧港店が迎えてくれた。店に漂う空気は、いかにもアメリカのロードサイドのそれだった。

トイ・ストーリーのピザ・プラネットみたいだ・・・」

 

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(つづく)

5.沖縄バス【65】本部半島線(2)[沖縄]

 

「ああ、この『オバァの家』感、たまんねぇなァ」

窓も扉も全部開けっ放しの畳の間で、O君が足を投げ出してくつろいでいる。ゴーヤーチャンプルーはまだか。

 

* * *

 

・オバァの食堂で

 

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美ら海水族館を出た僕とO君は、駐車場を越え、偶然スマホ検索で見つけた、その名も「チャンプルー食堂」に向かって歩いていた。点々と並ぶ石敢當(『いしがんとう』:沖縄独特の風水に基づくまじないの一種)の傍を歩いていると、未舗装のサトウキビ畑の中に道が消えていた。こんなところに食堂があるのか・・・と怪しくなってきたあたりで、看板を見つけた。いかにも「家の前に観光地ができたので自宅を改装して店を開きました」的な店だった。普通に表札が掲げてあるんだもの。いかにもな「玄関」は当然開けっ放し。門柱にシーサーが鎮座しているあたりは、さすが沖縄。

 

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「玄関」に入るとオバァが一人。居間には客が数人。厨房の中にオバァがもう二人。トイレの扉を開けると、奥の居間でうまそうに煙草を燻らすオジィが一人。いい御身分だ(笑)

海風が心地よい畳の居間で待つこと数分、これぞオバァ特製のゴーヤーチャンプルーが出てきた。おつゆはわかめスープ仕立てのお澄ましなのが沖縄の定食。いや、うまい。ゴーヤーはもちろん、もやし、島豆腐、ベーコンがよく絡み合っている。これで600円は観光地価格とは思えない。その証拠に、観光バスの運ちゃんも隣でゴーヤーチャンプルーをうまそうに頬張っていた。ウチナンチューも訪れる店なのだ。

 

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O君は敢えてチャンプルーでなく、これも沖縄の定食の定番、同じく600円の「ポーク玉子定食」を注文。チャンプルー食堂なのにチャンプルー頼まないの?と聞くと、O君曰く「チャンプルーは東京を発つ前に食べてきたんですよ、気分を上げておこうと思って」…このあたりに経験値の差が出るな。こんがり焼かれたポークが旨そう。

 

偶然見つけた、家庭的を通り越して家庭そのものの食堂。記念公園前バス停からも、歩道橋を渡って駐車場に上がれば、歩いて5分程度と寄りやすい。記念公園を訪れる際には、ぜひおすすめしたい店だ。

 

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チャンプルー食堂
0980-48-4131
沖縄県国頭郡本部町字石川392
https://tabelog.com/okinawa/A4702/A470202/47010352/
 

・脱ウチナータイム?定時運行の高速バス

 

バス出発15分前に店を出た。海岸から海風が吹きわたり、サトウキビ畑の中を歩くだけでも気持ちいい。これが「ざわわ」か、なんて。

「定刻に来ると困るので」早めにバス停に来たが、【65】本部半島線(今帰仁経由)は定刻15:08になっても姿を現さなかった。まあ、定刻に来るなんて思っていなかったけど。反対側の【66】本部港経由名護ゆきや、那覇ゆき高速バスが出るポールには10人程待っている人がいるが、那覇や名護から遠ざかる今帰仁方面を待っているのは僕らだけ。

そう思っていたら、同じく15:08発の【117】那覇空港→ホテルオリオンモトブゆきの高速バスが到着。なんだ、高速バスはウチナータイムじゃないのか。名護BT始発の【65】より距離はよっぽど長いのにな。高速バスだけは遅らせまいと必死なんだろうか。117番からはやはりレンタカーが苦手な外国人観光客が多く降りてきた。中にはスーツケースに小さな子供を抱えたファミリーもいて驚く。すごい体力だなあ。20人程の観光客を降ろし、117番は足早に去って行った。

 

それから待つこと5分、65番がやってきた。少々くたびれたワンロマ車に乗り込み、整理券を取る。やはり乗客は僕とO君の2人だけだ。

15:13、記念公園前発。沖縄バス【65】本部半島線、今帰仁経由名護バスターミナルゆき。

 

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マングローブ林を行く

 

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中型ボディに固定のロマンスシートが並び、観光需要にも対応できるものの、乗っていたのはオバァとオジィが一人ずつ。うち、オジィは沖縄バスの帽子を被っていたので、おそらくはガイドか運転士かの便乗だろう。実質的な乗客はオバァ一人。

65番は本部半島付け根の名護バスターミナルを始発とし、本部半島西側の記念公園前、本部半島の北側にある今帰仁村(なきじんそん)を経由し、また名護に戻る経路を辿る。時計回りが65番、反時計回りが66番で、それぞれ1時間に1本程度の頻度がある。記念公園近くの「ホテルオリオンモトブ」までは117番高速バスが空港から直通するものの、今帰仁城址(尚巴志による本島統一以前、三山時代の『北山』の本拠)で知られる今帰仁村へは、65・66番に乗るほかないのであるが、土曜の午後にも関わらず65番は閑散としていた。さすがに記念公園前では何人かの観光客を降ろしたものの、さらに先へ向かう観光客はほとんどがレンタカーなのだろう。

 

ガタガタ国道をしばらく走ると、海岸に出た。しかしながら記念公園や瀬底島あたりの海とは異なり、海が白濁して見える。よく見ると、水面から松のような低木が顔を出している。おお、これがうわさに聞くマングローブか。マングローブというと、西表島のシーカヤックの写真で見るような、「鬱蒼と茂る」という枕詞がつくようなものを勝手に想像していただけに、こうしてバスも走る国道沿いの手が届くようなところに生えているとは思わなかった。しかも、一部分にあるとかそういう感じではなく、国道に沿って転々と続き、水面に枝を広げている。

 

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屋我地島、古宇利島へ橋が架かったためフェリーが廃止され、このあたりを航行する船舶は小さな漁船くらいしかなくなった。スクリューで水面近くをかき回す船舶が減ったことも、恐らくは水流に弱いマングローブの成長に一役買っているのではないだろうか。大木があまりなく、低木が点々と続いていることも、ある時を境に育ち始めた証左だろう。

離島架橋は海洋環境の悪化につながると懸念されることもあるが、こうして岸辺にマングローブが点々と連なるのを見ていると、実はマングローブ育成には貢献しているんじゃないかという気がしてくる。マングローブの根っこは「海のゆりかご」とも聞く。漁業資源の回復にも貢献しているだろう。

海水にひたひたと浸かりながら、平べったく枝を伸ばすマングローブ。「海のゆりかご」のなせる業か、彼らをバスの窓からのんびり見ているだけでも、不思議と心が和むものだ。

 

・テーゲーなバスターミナル

 

今帰仁城入口」から今帰仁城址を観光してきたらしいカップルが乗り込んだ以外、名護市街地に入るまで新たな乗客はなかった。ほとんどのバス停を通過していくため、乗務員さんはアナウンスのボタンを2~3回まとめて押しているくらい。このあたりの「テーゲー(=大概、たいがい)」っぷりも、沖縄の中でも田舎な空気ゆえか。

名護の手前で小さな山を越え、山を下りていく途中から市街地になってくる。市街地に入ったあたりから、オジィやオバァがぽつぽつと乗ってくる。ロードサイドのスーパーの駐車場も、軽自動車がぽつぽつと止まっているくらい。那覇浦添あたりの、ビュンビュン車がカッとんでいく「クルマ社会」とはまた別物の「クルマ社会」の在り方を感じる。土を被って薄汚れた軽トラが、駐車ラインを無視して斜めに止まっていたり・・・なんというか、本島中南部とはまた違うユルい空気が漂っているのだ。

 

「名護十字路」でオジィオバァが何人か降り、国道58号に合流した「名護市役所前」でもさっきのカップルが降りた。市役所に向かい合って都市公園や沖タイ(沖縄タイムス)の支局が並んでいるあたり、人口二万とはいえ本島北部の拠点らしさを感じる。ほとんど渋滞に巻き込まれることもなく、広々と青天井が広がる名護バスターミナルへと、65番は滑り込んでゆく。遅れも10分足らずと、沖縄にしては優秀な部類だ(笑)

16:10、名護バスターミナル着。ここから先は、往路の120番と違い、東海岸の市街地を縫って走る77番に乗り換え、宜野湾市のホテルを目指す。

 

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待合室の中にある売店は、なんとものんびりした空気。清潔感など知ったことか、という感じだ(失礼!)。屋外の掲示板にあるバス時刻表も手書きやマジック書きだったり、さらにはコピー用紙が画鋲で貼られているだけだったり(当然風雨に晒されるのでしわしわだ)、なんとまあテーゲーなこと。

 

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* * *

 

でも、青天井の下に佇むバスたちを見ていると、まあこれはこれでいっか、というおおらかな、いや、テーゲーな気分になってくる。僕はこのテーゲーを感じに、遠路はるばる沖縄まで来たのだ。

「テーゲーでいいさー」ってね。

 

(つづく)