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18.JR紀勢本線(多気-新宮) -東紀州・熊野古道をめぐる羊腸の道- #三重 #和歌山

紀伊半島は大きい。本当に大きい。伊達に日本一大きい半島じゃない。それこそ、その辺の島よりなんぼも大きい。行くのもしんどい、引き返すのはさらにしんどい。目指す和歌山は遥か先。あと5時間、この揺れに耐えられるのか…。

そんなことを、2両のワンマン列車のなかでぼんやりと、しかし腰の痛みはだんだん強くなりつつ、そこだけはしっかりと考えていた。

紀伊半島の大きさを知る

朝6時の伊勢市駅は、さすがに人影は少ないものの、通学客を中心にぽつぽつと人が集まり始めていた。ここから和歌山まで350km、10時間あまりに及ぶ怒涛の乗り継ぎの始まりである。伊勢市出発は6:29、和歌山到着は16:36。途中の新宮から特急に乗れば13:49には着くが、それでも7時間強の旅路になる。

f:id:stationoffice:20180629184043j:image朝もやの伊勢市駅。天気はあいにくの雨模様
f:id:stationoffice:20180629184053j:image改札を共有する近鉄はIC対応なので改札機にリーダーはあるが、JRは非対応。そのことを電光掲示板でも強調している
f:id:stationoffice:20180629184047j:image乗客を待つ伊勢市6:29発普通亀山行き

ただ、伊勢市から和歌山を目指すのであれば、一旦近鉄で大阪へ向かい、大阪から南海線JR阪和線に乗り換える方が、紀勢本線を新宮経由でひたすら乗り通すよりもよほど速い。参宮線と似たような時間に伊勢市を出るとすれば、伊勢市6:45発急行近鉄名古屋行き〜松阪6:59着・松阪7:05発特急大阪上本町行き(松阪始発)〜鶴橋8:36着・8:38発〜大阪難波8:44着・南海難波9:10発〜和歌山市着10:09…と、たったの3時間10分で到達してしまう。海沿いの単線の隘路をうねうねと辿っていくよりも、俊足で鳴らす電気鉄道で紀伊半島の付け根をトンネルでぶち抜き、あとは大阪から海沿いに少々南下した方が、同じ紀伊半島に位置する和歌山ですらよっぽど早く着くというわけだ。

ちなみに大阪経由と新宮経由が拮抗するのは、時間の上では周参見(すさみ)あたりで、どちらに乗っても4時間50分程度。大阪からだと和歌山を通り越し、熊野古道の中辺路(なかへち、紀伊半島を横断する短絡路)と大辺路(おおへち、海岸線に沿っていく経路)が分岐する紀伊田辺を通り越し、京阪神のリゾート地として名高い白浜をも通り越した先、紀伊半島の南端部に近いあたりでようやく大阪経由と新宮経由が拮抗する。それほどまでに紀伊半島を貫く近鉄、すなわち電気鉄道が速いと見るべきか、海岸沿いの隘路を辿る非電化単線が遅いと見るべきか。同じ紀伊半島内の移動なのに、まさか大阪経由の方が圧倒的に速いとは、思ってもみなかった。しかしまあ、半島内の移動の話であるのに3時間5時間7時間という単位になるあたり、いかにこの半島のスケールが大きいかがわかる。

そしてその紀伊半島南部は有史以来の良質な木材の供給地であり、膨大な量の木が密集して生育しており、文字通り「木の国」→「紀伊国」であったわけだ。「紀伊国屋書店」をはじめ、「紀伊国」を「きいのくに」ではなく「きのくに」と読むのは、「木の国」を語源にもつため。紀勢本線を旅していると、ついつい海側の車窓に目がいくが、反対側の山側にも目を向けたい。そこには、京都・大阪といった古くからの大消費地に隣接し、我が国の建築を長い間支え続けた木材の供給地たる紀伊国の姿がある。多湿にして地震が多い我が国は、いまだに一戸建ては木造が多い。石造は地震に弱い上に密閉性が強く、多湿の風土には向かないため、これだけ西洋文明の影響に強く晒されながらなお一般化しない。熊野古道世界遺産登録の影響で、紀伊山地の山々にはにわかに注目が集まっているが、なにも霊場ばかりでなく、こうした普段着のまま、それも千年以上続く生活のあり方を色濃く残す、紀伊の山々の姿も目に留めておきたい。

・朝が早い三重県南部の鉄道

その大きな紀伊半島に、三重県側から踏み入れることにした。まずは伊勢市から参宮線普通亀山行きに揺られること22分、紀勢本線の入り口にして参宮線との分岐駅・多気へ6:51に到着。ここで多気7:05発、紀勢本線普通新宮行きの2番列車へ乗り換え。この接続は伊勢市駅の電光掲示でも案内されており、伊勢市をはじめとした三重県中勢と、尾鷲市・熊野市あたりの三重県紀州との繋がりはそこそこあるらしい。さしもの近鉄三重県紀州までは到達しておらず、荷坂峠を越えるにはJRが頼りなのだ。

ちなみに参宮線の始発は伊勢市4:45発と極め付けに早く、山手線や中央線といった東京の国電に引けを取らない。紀勢本線普通新宮行き始発も松阪5:20発と早く、6時台になってゆっくりと動き始めるローカル線が多いなか、三重県中勢の始発の早さは際立っている。近鉄の鮮魚列車しかり、今でも列車で三重県中勢から津・名古屋・大阪などへ魚の行商に出向いたり、或いは大都市側から買い付けのために中勢や三重県紀州へ出向く需要がけっこうあるのだろう。朝早い漁師の生活に合わせたダイヤが根付いているようだ。

・通学に特化した不思議なダイヤ

多気に到着すると、乗ってきた普通亀山行きは紀勢本線新宮方面からの接続を待つわけでもなく、16分停車。不思議に思っていると、鳥羽方から空車のキハ25の2両編成がやってきて、そのまま連結。伊勢市からずっとガラガラだったが、多気から更に2両増結の4両になり、更にガラガラになってしまった。しかもこの列車、津の2駅手前の高茶屋で9分停車し、伊勢市を31分も前に出た快速みえ2号名古屋行き(上り始発)に抜かれてしまう。つまり、伊勢市を出て津に着くまでの間、多気で16分、高茶屋で9分、計25分も停車時間があるという、朝に県庁所在地へ向かう列車とは思えないほどのんびりした普通列車というわけ。

f:id:stationoffice:20180629184352j:image多気で空車を2両増結
f:id:stationoffice:20180629184357j:image主要駅らしく古レール利用の屋根が架かる

一見不可思議なこの妙なダイヤは、津の1駅先、一身田(いしんでん)駅徒歩7分に所在する三重県下屈指の進学校高田学苑への通学需要に合わせたものであろう。まず、津を目前にした高茶屋で追い抜いていく快速みえは津から伊勢鉄道へ入っていき、一身田を通らないため、4両編成ではあるものの高田学苑への通学列車にはなり得ない。加えて近鉄線の中では高田学苑に一番近い、その名も高田本山(たかだほんざん)駅も、高田学苑からは徒歩25分ほどと遠い。高田学苑の生徒数は4,000名弱におよび、このうち25%が津方面からのJR利用だとしても、この伊勢市6:29発→津7:50発→一身田7:54着と、熊野市5:03発→津8:26発→一身田8:30着の2本に、三重県下全域から約1,000名の通学客が殺到する。4両編成の空車は詰めに詰めれば800名程度乗せられるので、だいたい計算が合うだろう。

なお、この伊勢市6:29発→津7:50発→一身田7:54着の次の、熊野市5:03発→津8:26発→一身田8:30着普通亀山行きに乗っても、高田学苑の8:50の始業には間に合う。いるかいないかは別として、高田学苑から145km、3時間27分も離れた紀南の中心都市、熊野市からの通学も可能ではある。このことからも、JRが通学に最大限配慮しているダイヤを組んでいることがわかるだろう。

ちなみに近鉄高田本山駅は、高田学苑の母体である浄土真宗高田派総本山専修寺(せんじゅじ)に因むもの。専修寺高田学苑は隣接しており、専修寺の僧侶が高田学苑の教師を務めていたり、高田学苑のカリキュラムにも仏教的要素が取り入れられているなど、両者は不可分の関係にある。高田学苑専修寺寺子屋が発展して成立したものであり、明治以降に成立した公教育よりも古い歴史を持つため、「三重県下で最も歴史ある学校」と言われる。奈良の東大寺学園(その名の通り東大寺が経営)、京都の洛南高校(東寺の境内に位置し真言宗の連合が経営)など、寺社を経営母体に持つ進学校は関西に多いが、高田学苑もその系譜の一つにあると言えよう。

話を戻すと、このような状況だからこそ、多気や高茶屋で何分停車しようが、JRにとってはこの1駅のために空車を用意しさえすればいい。むしろ津を前にした高茶屋で敢えて快速みえが追い抜くことで、津で降りる乗客を快速みえに誘導し、普通列車に乗せないようにして、極力空車のまま津に到着させ、大量の通学客を迎えているのではないかと思う。JRにとってはたった1駅のためだけに津から30kmも離れた多気から空車を送り込まざるを得ず、効率が悪いとしか言いようがないが、このような実態とあっては致し方ない。

朝の上り列車とは思えないほど遅い普通列車のダイヤ。その裏には、限られた設備で局所的なピークに備えなければならないJRの苦心が見え隠れする、「スジ屋」の知恵と工夫が込められていた。

・荷坂峠を越えて

6:51に多気に到着し、下りホームへ階段で渡る。件の普通亀山行きの増結劇を観察しているうち、6:57に亀山からやってきた紀勢本線普通新宮行きは昨日と同じ、ピカピカの新車・キハ25の2両編成。綺麗な車体に整然とロングシートが並ぶが、こうも乗客が少なくてはその収容力を持て余してしまう。先程の津→一身田のような局所的な混雑は別として、近鉄がない三重県南部唯一の鉄道ゆえ、長距離乗車も多い紀勢本線普通列車なのだから、扉間くらいはボックスシートか転換クロスシートにしても良いのではないかと思う。

この普通新宮行き、亀山を6:08に出てさしたる長時間停車もなく多気に着くが、ここで8分停車。伊勢市からの参宮線普通亀山行きと十分に接続時間をとり、参宮線からの乗り換え客を乗せて7:05に出発。津方面からの通し乗車と合わせ、乗客は計20名ほど。

多気を出ると、支線の参宮線が直進していき、本線であるはずの紀勢本線が右へ大きくカーブしていくが、これは伊勢編初回で紹介した通り、参宮線の方が国家的要請のため、1893年という鉄道黎明期に開通した歴史によるもの。紀勢本線多気から分岐して最初の区間が開通したのは1923年と、参宮線が開通してから30年もあと。紀勢本線が全線開通し、開通以来参宮線に属していた亀山〜津〜多気間が紀勢本線所属に変更されたのは1959年と戦後になってからの話であり、人の流れとしては今なお参宮線の方が太い。多気駅の時刻表を見比べると、参宮線伊勢市方面は快速みえと普通列車が各1本/h程度、計2本/h程度が確保されているのに対し、紀勢本線新宮方面は亀山からの普通列車と名古屋からの特急ワイドビュー南紀を合わせてようやく1本/h程度。それでも1時間以上運転がない時間帯もあり、参宮線の半分しかない。伊勢と紀伊を分かつ荷坂峠の険しさ、言い換えれば人の流れの細さが、列車のダイヤにも現れていると言えよう。「荷坂峠」という名前に、峠のあり方がありありと現れている。

f:id:stationoffice:20180629184611j:image参宮線に比べ空白が目立つ紀勢本線の時刻表
f:id:stationoffice:20180629184607j:image普通新宮行きはやはりオールロングシートのキハ25系2両

基本的には海岸線に沿っていく紀勢本線だが、紀伊長島までは荷坂峠越えを含む山間区間が続く。三重県南部および和歌山県南部で広く流通する「大内山牛乳」のふるさと、大内山の駅前には大きなサイロをはじめ牛乳工場が広がっており、牛乳の生産が地場産業となっている様子が窺える。2005年の合併により度会郡大紀町(たいきちょう)となるまで大内山村の中心であったが、特急は停車しない。さらに大紀町内に特急停車駅はなく、役場最寄りの滝原駅(隣の大台町に所在するが駅前の川を渡れば大紀町)も特急は停車しない。特急に乗るためには大台町の中心、三瀬谷駅まで出向く必要がある。そのため、大紀町には普通列車を頼りにするほかなく、滝原や大内山では少ないながらも乗り降りが見られた。その大内山で上り3番列車の普通多気行きと交換し、7分停車。この日は休日であったが、下り新宮行きは2両編成でもガラガラだが、上り多気行きは4両編成に大勢の高校生が立っていた。多気の1つ新宮寄り、相可(おうか)の相可高校か、松阪・伊勢市・津方面へ向かうのだろう。8:30の始業にはこの列車では間に合わないためみんな部活なのだろうが、部活だけでも結構なボリュームだ。こちらの下り新宮行きは山間の小駅では乗降ゼロといったことも珍しくないなかで、淡々とした走りが続く。

f:id:stationoffice:20180629184756j:image駅前に牛乳工場が構える大内山。酪農が地場産業なのだ

梅ヶ谷駅を出ると山間区間をいよいよ脱し、次は紀伊長島。地図を見ると、古くから伊勢と紀伊の境をなした荷坂峠を越えるべく、紀伊長島の手前で線路がΩカーブを描いている。海岸線ギリギリまで山が続き、一気に地形が落ち込んで港町の紀伊長島に至っている様子がよくわかる。最短距離で結ばず、距離を伸ばして緩勾配にするのは、登坂性能に劣る蒸気機関車の走行を前提としたもの。このあたりは1930年代の開通であり、既に近鉄の電車特急が大阪や名古屋から伊勢を目指して駆け抜けている時代ではあったものの、いささか時代離れした設計かもしれない。しかし、国鉄の幹線は貨物列車が多いこと、また旅客列車においても気動車もまだそこまで普及しておらず、特に幹線は貨物列車と機関車を共有できる客車列車も多かったことで、蒸気機関車前提の設計にせざるを得なかったのだろう。いまこの区間を走るのは軽量な気動車ばかりで、いたずらに距離が伸びるだけになってしまっているのは皮肉なことだ。最新のキハ25をもってしても、この1駅の通過に9分を要する。

f:id:stationoffice:20180629184926j:image紀伊長島で海を見る。ここは三重県だが文字通り紀伊国

・東紀州を貫く紀勢本線

紀伊長島北牟婁郡紀北町(きたむろぐん・きほくちょう)の中心地。牟婁とは三重県南部〜和歌山県南部、東は紀伊長島から西は白浜までを広く指す広域地名で、名実ともに東紀州地域に入った。江戸期は和歌山藩領であり、山を越えた先の伊勢・津よりも、熊野古道や海を介した先の和歌山の方が往来がしやすかったのであろう。ここまで来ると和歌山県とのつながりもだんだんと深くなり、紀伊長島〜新宮(和歌山県)間の海岸線沿いのみを走る区間列車も3往復(臨時列車1往復含む)設定されている。三重県の県庁所在地たる津方面行きよりも、和歌山県の新宮行きの方が本数が多い。それだけ、沿岸部の交流の方が太いことを物語っている。その紀伊長島から高校生が乗り込み、車内はにわかに活気付いた。

紀伊長島を出て、三野瀬、船津と進む。船津駅は文字通り港のすぐ横にあり、手を伸ばせば届きそうな位置に港がある。海の近くの駅は数あれど、漁港のすぐそばという駅はあまりないかもしれない。

f:id:stationoffice:20180629185047j:image

紀伊長島から4駅、29分経った尾鷲(おわせ)で高校生はどっと降りていった。多気からここまでで一番の都会であり、現に伊勢市を出て以来の「市」、尾鷲市である。尾鷲到着は9:01で高校の始業には間に合わないが、これもやはり部活の練習だろうか。賑やかな高校生が降りていき、車内は再び落ち着きを取り戻した。

f:id:stationoffice:20180629185154j:image建物が建て込んでくるとまもなく尾鷲
f:id:stationoffice:20180629185159j:image有人改札を高校生が抜けていく。自動改札は当然無い

尾鷲から3つ目、三木里(みきさと)から新鹿(あたしか)までの12.3kmは、1959年に紀勢本線で最後に開通した区間にあたる。このあたりは入り組んだ岬と湾の繰り返しで、岬の付け根をトンネルで直線的に穿ち、湾の最奥部のわずかな平地に駅を設け、またトンネル…という繰り返しになる。紀伊長島までのうねるような山間区間と異なり、キハ25は直線のトンネルでスピードを上げる。

f:id:stationoffice:20180629185456j:image海水浴場で有名な新鹿だが近年は臨時列車の運転や特急の臨時停車はない

f:id:stationoffice:20180629185352j:image美しい海が続くが天気が残念

・津松菱百貨店の袋を提げた老紳士

熊野本宮大社の玄関口、熊野市を9:50に出るといよいよ終点・新宮までは約30分。多気から3時間15分乗り通したキハ25とももうすぐお別れ、さあもう少しで終点だ…と思っていたら、熊野市の次、9:53に着いた有井でひとりの老紳士が降りていった。多気到着の時点で既に乗っていて、自分と同じように長距離乗車だった。尾鷲でも降りず、熊野市でも降りなかったので、新宮まで行くんだろうと思っていただけに、まさかこんな小さな駅で降りていくとは、予想外だった。

そして驚くことに、有井で降りていった老紳士は津松菱百貨店の袋を提げていた。おそらくは贈答品なのだろうが、たしかに熊野市から一番近い百貨店は、松阪や伊勢市の三交百貨店が姿を消した今では、普通列車ではるか3時間半も離れた津松菱になる。この普通新宮行きの津出発は6:26で、まさか熊野市から泊まりがけで津まで出かけたのかもしれない…と思うと、これだけ離れてなお県都の百貨店の求心力が高いことを示している。また熊野市到着9時台では特急の運転も始まっておらず、この時間に着こうと思ったらこの普通列車を乗り通す他ないのも、長距離乗車が多い要因の1つだろう。熊野市では和歌山近鉄百貨店の袋より、同じ三重県内の津松菱の方がブランド力を持つのかもしれない。百貨店ブランドは、いまだ熊野市のような遠隔地でも健在なのだ。

・「次は終点、新宮」

f:id:stationoffice:20180629185631j:image終点新宮。構内は大阪から特急電車が来るため電化されている
f:id:stationoffice:20180629185627j:image隣では新大阪行き特急くろしおが乗継客を待っている

自分らを乗せたキハ25は、多気から3時間15分、津から3時間55分、始発の亀山からは実に4時間13分を経て終点・新宮に到着。オールロングシート車ではあるが、乗り心地が良いためにこれだけの長距離乗車でもあまり苦にならなかった。隣のホームには特急くろしお号新大阪行きが乗り継ぎ客を待つが、自分は一旦改札を出て、まちなかへ。

 

(つづく)

17.近鉄鳥羽線 -みそぎのまち・二見浦の夫婦岩- #三重

・高規格な近鉄鳥羽線

宇治山田駅から近鉄で一旦鳥羽駅へ向かい、そこからJRで折り返して二見浦へ向かうことにした。参宮線伊勢市以遠は18時を過ぎると快速みえを含めて1時間に1本に減ってしまうため、かなり遠回りではあるが、鳥羽経由の方が伊勢市経由よりも接続が良かったのだ。

やってきたのは近鉄5200系の急行鳥羽行き。ただ、急行とはいっても伊勢市からは各駅停車。名伊急行(近鉄名古屋〜宇治山田・五十鈴川)、阪伊急行(大阪上本町〜宇治山田・五十鈴川)とも基本的に宇治山田か五十鈴川までの運転であり、五十鈴川からたった三駅とはいえ、鳥羽まで足を伸ばす急行は非常に珍しい。

f:id:stationoffice:20180622145850j:image宇治山田に到着する近鉄名古屋発急行鳥羽行き

f:id:stationoffice:20180622145817j:image3扉・転換クロスシートの近郊型電車の基本を作った近鉄5200系

現行ダイヤでは近鉄名古屋発→鳥羽着が7・8・21時台に1本ずつの計3本(土休日は20時台が1本増えて計4本)、大阪上本町発→鳥羽着が22時台に1本のみ。反対も鳥羽発→近鉄名古屋行きが6時台1本・7時台2本、鳥羽発→大阪上本町行きが5時台(土休日は6時台)に1本のみ。さらに上り下りとも鳥羽での賢島方面接続はなく、純粋な地元民向けのサービス急行と言える。近鉄伝統の鮮魚列車(行商人用の伊勢~大阪間を結ぶ専用列車。海産物の積み込みもできる)の運転も続いており、鮮魚列車でなくとも、早朝に鳥羽から大阪・名古屋を目指す利用は一定数存在するのだろう。したがって早朝の鳥羽発・深夜の鳥羽着しか急行の運転は無く、観光客の利用には全く向かない。観光客向けには特急しまかぜ・特急伊勢志摩ライナーをはじめとする各種特急列車が充実しており、わざわざ急行に乗る向きも少ないのであろうし、近鉄としても長距離利用はなるべく特急に誘導したいだろう。

宇治山田を出ると市街地を高架線で抜け、トンネルをくぐる。1969年に新しく開通した区間だけに規格が高く、5200系の急行は各駅停車ながらスピードを上げていく。トンネルを抜けると、観光客が姿を消し、静まり返った五十鈴川駅に着く。何人かが降りていったが皆軽装で、18時過ぎとあって旅行者といった雰囲気はない。宇治山田市街か津・松阪あたりからの帰宅客であろう。朝熊山の麓をトンネルで抜けて朝熊、またトンネルを抜けて池の浦と、立て続けに山の中の無人駅に停車していくが乗降は無く、数秒でドアが閉まる。池の浦までほぼ直線か緩いカーブで、コンスタントに100km/h以上のスピードを出して快走していく。池の浦を出るとその名の通り池の浦に沿って走るが、こうも暗くては景色が見えない。伊勢市から海岸べりを走ってきた参宮線が隣に合流すると、宇治山田から15分ほどで鳥羽駅に到着する。参宮線では二見浦のみ停車の快速みえで15分、普通では20分ほどかかるため、各駅停車でも15分の近鉄はやはり速い。ただ、運賃は近鉄330円に対しJR240円と、JRに軍配が上がる。18:15、鳥羽着。

 

近鉄の陰でひっそり?JR鳥羽駅

鳥羽駅はJR・近鉄の共同管理駅で、両社間に中間改札はない。鳥羽だけでなく伊勢市・松阪・津などでも同様であり、これだけ長きにわたり中間改札なしに接続駅が続く例は珍しい。鳥羽では旧市街に向いた山側にJR、鳥羽水族館ミキモト真珠島などの観光地が連なる海側に近鉄の駅舎がそれぞれ構えており、両社は連絡通路で結ばれているものの、それぞれの乗車券はそれぞれの駅舎でしか買えない。近鉄が構える海側は、駅前が埋立てによって大幅に拡張されたため、各観光地を結ぶバスターミナルが充実している。しかしながら、18時台も半ばとあっては、観光客の姿が無く、火の消えたような静かな駅前である。

f:id:stationoffice:20180622150637j:image長駆名古屋から走り抜けた急行。普通宇治山田行きで折り返す
f:id:stationoffice:20180622150632j:image大阪・名古屋への特急が次々と発車する。編成もJRより長い
f:id:stationoffice:20180622150627j:imageなんばグランド花月への観劇を誘う広告が大阪文化を感じさせる

その近鉄を降り、JRホームへ向かう。海側の近鉄駅舎は橋上駅舎だが山側のJR駅舎は地上駅舎であるため、一旦近鉄の橋上駅舎へ階段を上がり、近鉄スタイルの案内板に従ってJRホームへとまた階段を降りる。近鉄ホームはやや人影があったが、JRホームは輪をかけて静か。18:22発の普通亀山行きが発車を待っていたが、乗客は自分を含めて3人だけ。これだけ少ないとあっては伊勢市・松阪・津などへの乗客はいるはずもなく、近鉄が通らない二見浦、宮川、田丸などへの乗客に限られるだろう。かくいう自分も二見浦下車である。18:22、鳥羽発。

f:id:stationoffice:20180622151007j:image近鉄様式の案内が下がる。この跨線橋までが近鉄管理らしい
f:id:stationoffice:20180622151016j:image木造の大屋根がホームを覆うがそれに見合う乗客がいない
f:id:stationoffice:20180622151012j:imageJRでは鳥羽が終点。志摩方面へは近鉄の独壇場だ

 

・ローカル線を走るピカピカの新車

f:id:stationoffice:20180622152502j:image2014年デビューのキハ25。見た目は313系電車そっくり
f:id:stationoffice:20180622152507j:imageワンマン対応のキハ25。参宮線普通は津から名古屋でなく亀山へ
f:id:stationoffice:20180622152511j:image地方に不釣り合いなロングシート。整理券発行機が目立つ

ピカピカの新車、キハ25はたった3人の乗客を乗せて走る。2両編成と小柄な編成に、ワンマン対応の運賃箱に整理券発行機を搭載するあたりがいかにもローカル感を醸し出しているが、その他の車内設備は中京圏の通勤電車と変わらない3扉オールロングシート。さらに見た目はJR東海の電化区間を席巻する313系電車とほとんど同じであり、高山線岐阜口や太多線あたりの非電化通勤路線なら馴染みそうだが、参宮線紀勢線といったローカル線には不釣り合いな空気。たった3人の乗客の前で、誰も頼りにしない吊革が虚しくぶらぶらと揺れる。まあここいらのお得意様は短距離しか乗らない通学の高校生がほとんどなわけで、彼らにとっては立ちスペースが広く、高校最寄駅の主要駅では両開き3扉を一気に開けて一気に降りられる、3扉オールロングシートのキハ25の方が便利だろう。しかし1時間に1本は特急が走る高山線と違い、1日4本しか特急がない紀勢線は、津・松阪あたりの中勢(ちゅうせい)地方から、尾鷲・熊野市あたりの南紀地方まで、2時間以上を乗り通す乗客も珍しくない。加えて沿線の高速道路の整備もまだまだで、需用量は多くないものの、その人口の割に鉄道に対する依存度は高いように見受けられる。そのような環境にあって、キハ25の3扉オールロングシートは長距離利用や観光利用には不向きで、高校生向けに偏りすぎな印象を受ける。JR東海ならではの東海道新幹線流の徹底した共通化・効率化が三重県南部の非電化単線のローカル線にまで及んだか、という気になる。

しかしながら、こういった非電化単線のローカル線にも時代にあった新車を導入し、全体としての体質改善を図っているのであるから、JR東海の姿勢は間違っているとは思わない。事実、このあと同様に長距離利用を強いられた紀勢本線新宮〜紀伊田辺間の105系電車では、3扉オールロングシートの接客設備もさることながら、車両の揺れや振動が腰を直撃する、国鉄時代そのままの乗り心地の悪いコイルばね台車に辟易する羽目になった。同じ3扉オールロングシートとはいえ、キハ25に乗っている時にこうした乗り心地の悪さは全く感じなかった。そうした意味では、新車が地方にもやってくるのは実にありがたく、これも東海道新幹線という大黒柱あってのことなのだとも思う。それも安普請の車両ではなく、まず乗り心地が良く、ロングシートであっても掛け心地が良く、大きな窓につや消しの化粧板がさわやかな車内と、ある程度の高級感も感じられる室内とあらば尚更だ。

f:id:stationoffice:20180622173222j:image紀勢線南部を走るJR西日本105系。西日本は国鉄車が多く残る

東海道新幹線のような大黒柱があるかどうかは、地方ローカル線の経営や質にもかかわってくるのだ…と、たった3人の乗客を乗せ、夜の参宮線を走るピカピカのキハ25の中で感じた。

 

・夜の二見浦を歩く

鳥羽から普通亀山行きに揺られること10分、18:32に二見浦着。自分ともう1人が降り、10人ほどが乗車。鳥羽行き快速みえと交換し、ほどなく発車していった。二見浦には近鉄がないため、やはり乗降ともに周囲の駅より多い。

f:id:stationoffice:20180622173950j:imageかつて長大編成が発着したホーム。幅も広いが持て余し気味
f:id:stationoffice:20180622173954j:image駅名はこの通りだが地名は「ふたみがうら」である
f:id:stationoffice:20180622173959j:image無人化されて久しい駅構内。横断幕が迎えるがどこか寂しい

f:id:stationoffice:20180622175436j:image駅舎内では旧二見町の産品が紹介されている
f:id:stationoffice:20180622175433j:image二見興玉神社の簡単なあらましが駅でも紹介されている
f:id:stationoffice:20180622173944j:image夫婦岩をモチーフにした二見浦駅舎。近代的かつシンボリック

著名な観光地の最寄り駅であるが、現在は無人駅となっており、旧窓口はシャッターが閉じられたままで、切符回収箱が設置されているだけの、侘しい雰囲気。それでも、観光客を出迎える横断幕が改札口に掲げられていたり、伊勢市二見地域(旧二見町)の産品や名所を紹介するボードがあったりと、観光地らしい雰囲気も感じられる。駅舎はガラス張りの近代的なものに建て替えられており、大小二つの半円形が重なるデザインは、二見浦の象徴たる夫婦岩そのものだ。こうした意匠には、古くから旅人を迎えてきた歴史ある観光地の気概が感じられ、仰々しくない地元PRが心地よい。

f:id:stationoffice:20180622174344j:image二見浦駅前には二見興玉神社の大鳥居が構える
f:id:stationoffice:20180622174336j:image二見生涯学習センター(旧二見町役場)も夫婦岩のデザインだ
f:id:stationoffice:20180622174340j:image伊勢造りの歴史ある建物が並ぶ表参道

f:id:stationoffice:20180622174618j:image赤福も支店を構える
f:id:stationoffice:20180622174621j:image旅館街を抜ければ二見興玉神社はもうすぐ

18時過ぎとあって、二見浦の表参道は静まり返っていた。旧二見町役場(現・二見生涯学習センター)も、二見浦駅舎と同じく大小二つの半円形が重なるデザインであり、さりげない夫婦岩PRがここにも。伊勢造り(瓦屋根を正面に向けず、左右に流す和式建築。伊勢神宮を前に畏れ多い気持ちを表した構造と言われる)の商店が連なる表参道を駅からまっすぐ進んでいくと、海岸に突き当たったところで右へ曲がる。右へ曲がると今度は旅館が立ち並ぶ。見ると修学旅行などの団体旅行が多く、概してどの旅館も規模が大きい。宇治山田と違い、二見浦は海岸に近く平地が多いため、こうした大型宿泊施設が多く、伊勢市内の宿泊の受け皿として機能している様子が窺える。その旅館街を抜けると、いよいよ二見興玉神社の境内。二見浦駅からは徒歩15分といったところか。昼間であれば、ここまでの表参道は、赤福の支店をはじめとした伊勢造りの土産物屋が左右に建ち並び、さぞ賑やかなことであろうと思うが、こうも暗くては人通りもなく、現に歩いているのは自分だけだ。

 

・「夫婦岩」と「ぶじかえる」・・・二見興玉神社

二見興玉神社三重県内で伊勢神宮に次ぐ参拝者数を誇る神社で、沖合の夫婦岩と掲題に並ぶぶじかえる像で知られる。

伊勢に降り立った天照大神を導いた猿田彦大神が立っていたのが、二見興玉神社の沖合700mに沈む興玉神石(おきたましんせき)と言われ、夫婦岩興玉神石の遥拝所としての役割を持つ。興玉神石は海中に没しており、肉眼で見ることはかなわない。男岩と女岩の間に結ばれた大注連縄の間から昇る朝日は、伊勢のみならず「日出づる国」日本のシンボルとしても多用されるものだ。そして、その猿田彦大神の使いが蛙とされているため、全国からの参拝者が蛙の像を奉納していくことから、境内には多くの蛙たちが並んでいるというわけ。

また、式年遷宮などの伊勢神宮にとっての大きな祭礼の際、参拝者は二見浦で身を清めることが求められる。二見浦で身を清めてから伊勢神宮の参拝へ向かうことを「浜参宮」といい、これも古来からの伝統である。天照大神猿田彦大神の関係と同じように、伊勢神宮二見興玉神社の関係もまた切っても切れないものであるわけだ。

f:id:stationoffice:20180622174934j:image大小様々な蛙たちが境内に集まっている
f:id:stationoffice:20180622174929j:image手水鉢のなかに佇む「満願蛙」。愛嬌ある表情をしている

手水鉢で手口を清めるのは同じであるが、手水鉢の水の中には「満願蛙」がおり、願い事を唱えながら満願蛙に水をかけるとその願いが成就するのだという。ただ、あまりにも多くの蛙の像があるため、「満願蛙は水中の蛙です」とデカデカと掲示してあるのが、ちょっと目立ちすぎている。間違えて満願蛙でない蛙に水をかける参拝者もいるのであろうが、その看板ばかり目立っている。もう少し周囲に配慮した看板であってほしい。ただ、満願蛙自体は、いかにも蛙らしい愛嬌を感じるものだった。

f:id:stationoffice:20180622175132j:imageなんとか参拝叶った夫婦岩

そして肝心の夫婦岩はライトアップされており、悪天候ではあったがなんとか拝むことができた。似たような形の大小の岩が海中から突き出している様は、たしかに「夫婦岩」そのもの。ここから昇る朝日はさぞ霊験あらたかなことだろう。

こうした観光地は、夜になると閉じてしまうところが多いなかで、二見興玉神社は夜でも参拝でき、夫婦岩もライトアップされているので、表参道が寂しいことと、海が見えないこと以外に不足はない。夜であっても一通りの観光を済ませることができるのは、時間がない旅人にとってはとても嬉しいこと。こうした配慮も、古くから遠方の参拝者を迎えてきた歴史を持つ伊勢ならではという気がする。

日の出の遥拝はもちろん、夫婦岩と満願蛙への祈願だけでもユニークな参拝ができる二見浦。「二見」とは、「あまりに美しい浦であるので訪れた人々が振り返って二度見するほどの浦」であることに由来するもの。昼間であれば松林が続く穏やかな海に癒されるであろうし、夜であってもその静けさ故に、落ち着いた心で参拝ができる。伊勢神宮だけでなく、二見興玉神社も含めて参拝するのが古来からの習わしであるのであるが、その理由はひとえに「心を清める」ことにあるのであろう。

f:id:stationoffice:20180622175257j:image

「みそぎのまち」という単純にして心に響くフレーズの幟が揺れていたが、まさに禊をするにはうってつけ。思い悩むことなんて、全部水に流してしまってもいいのかもしれない。

 

(つづく)

16.近鉄山田線 -いにしえを今に伝える神宮徴古館、電気鉄道の時代を語る宇治山田駅- #三重

・「神宮徴古館」で伝統に触れる

おかげ横丁赤福を楽しみ、ミキモトで真珠の歴史に触れているうち、お昼過ぎになっていた。今度は内宮前終点でなく、二つ目の「猿田彦神社前」から伊勢市駅行きに乗り、「神宮徴古館」を目指す。

f:id:stationoffice:20180614184929j:imageおかげ横丁内のミキモト。真珠養殖の歴史を学ぶことができる
f:id:stationoffice:20180614184934j:image花盛りの五十鈴川。花見客相手の露店も多く出ていた
f:id:stationoffice:20180614184925j:image猿田彦神社前にも赤福の店舗がある。店先で頂く赤福はまた格別

おかげ横丁、おはらい町通りを通り抜けると、三重交通バス【51】【55】では二つ目の「猿田彦神社前」バス停の前に出る。猿田彦神社とはその名の通り猿田彦大神を祀る神社で、天孫降臨の際に天照大神日向国(ひむかのくに、現在の宮崎県)高千穂へ導いたことから、進路や道の神とされる。また、天照大神が伊勢へ遷座する際、二見浦に降り立った天照大神を内宮の場所へと導いたのも猿田彦大神とされる。その天照大神が降り立った場所に鎮座するのが二見興玉神社であり、その二見興玉神社から遥拝するのがかの有名な夫婦岩というわけだ。

このように、猿田彦神社伊勢神宮猿田彦大神天照大神は直接の関係はないものの、縁の深い神々と言える。そして現代に至っても、昭和に新しく開通した外宮と内宮を直接結ぶ御木本道路と、宇治山田駅へ向かう古くからのルートである御幸道路の分岐点が猿田彦神社前交差点であるということも、道の神たる猿田彦大神らしさが現れているようで、なかなか興味深い。

その猿田彦神社前から徴古館前へ向かうバスは【51】宇治山田駅伊勢市駅行きで、10-20分間隔で毎時4本の運転で、所要7分。【51】は近鉄五十鈴川駅前を経由するため、内宮の参拝を終えて大阪・京都・津・名古屋方面へ近鉄で帰る参拝客もよく利用する。

ただ、五十鈴川駅前はお土産屋や飲食店などに乏しく、ほぼ電車とバスの乗り換えに特化しているため、こういった向きはエキナカや駅前が充実している宇治山田駅伊勢市駅へ向かう。まっすぐ帰りたい向きは五十鈴川駅、寄り道したい向きは宇治山田駅伊勢市駅と、多くの参拝客が一つの駅に殺到しないよう、うまく三駅で役割を分散している。

f:id:stationoffice:20180614185328j:image御幸道路を跨ぐ大鳥居。奥は近鉄五十鈴川駅

内宮の立派な鳥居が見下ろす徴古館前バス停。降りたのは自分だけだった。バス停から小高い丘を上ると、そこに立派な神宮徴古館が構えている。ここでもやはりマイカーが多いのか、バスで訪れた場合、車道のみで路側帯しかない坂か、長い石段のどちらかを延々と上らなくてはならない。上り切ると広い駐車場が広がっているので、ここでもやはりマイカーやレンタカーでの観光が主流なのだろう。

f:id:stationoffice:20180614185508j:image明治らしい重厚感のある構えの徴古館。現代にも通じる名建築だ
f:id:stationoffice:20180614185517j:image立派なエントランスから中へ。撮影禁止の為収蔵品の写真はない
f:id:stationoffice:20180614185512j:image徴古館の隣に建つ農業館。こちらは和洋折衷の佇まい

説明が遅くなったが、「神宮徴古館」とは、式年遷宮の度に奉納される「御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)」の展示・紹介を通し、我が国の伝統や技術の粋に触れる、神宮司庁直営の博物館である。御装束神宝とは、神々が纏う衣服などの生活用品から、神々をもてなす美術・芸術品といった嗜好品に至るまで、神々の生活を彩る奉納品の総称。式年遷宮の場合、大工は全国から、木材は木曽や紀伊からといったように、全国各地から建築技術の粋を集めて執り行われ、これに関わることは最高の名誉にして最高の技術が求められるのであるが、これの工芸品版が御装束神宝というわけ。20年ごとの式年遷宮の度に新品が用意され、それまで奉納されていたものと交換される。かつては畏れ多いとして処分されていたそうであるが、明治以降は技術の伝承と発展という意味合いを込め、それまで奉納されていたものを撤下(てっか、神様からお下げすること)し、神宮徴古館で展示することとなったものだ。

徴古館の歴史は長く、前身となる「農業館」が外宮前に開設されたのは1891年、現在位置する倉田山に移転したのは1904年、そして徴古館が完成したのは1909年。農業館は徴古館の付帯施設として、徴古館の開設以来、共に歴史を重ねている。この時期は倉田山の開削による御幸道路の開通(1910年)、皇学館大学の開設(1919年)、神宮文庫の移転開設(1925年)など、外宮と内宮の中間に位置する倉田山の開発が進んだ時期であり、前々回紹介した三重交通神都線の電車が走っていた時期と重なる。

ちなみに、「農業館」が技術の「徴古館」に先んじて開設されたのは、近代農業の技術を世に広める目的があったのはもちろん、伊勢神宮が自ら田を持ち、日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい。1500年間にわたり1日2回、外宮にて執り行われる、神々の食事(=御饌)を奉納する儀式)で用いられる稲・米を自給しており、神宮自ら率先して稲作の技術を高めていく必要があり、そのこと自体が崇敬の対象にもなっていたためだ。

徴古館の中は、外宮や内宮、おはらい町通りと比べると静かなものであった。厳かな雰囲気の中で、全国から神宮に奉納するために集められた工芸品、美術品、そして刀剣、手芸、書道に至るまで、その造形美を心行くまで堪能することができる。隣接の農業館もぜひ見学したかったが、入館したのが遅かったために、あえなく17時で閉館となってしまった。これほど内容が濃いものであるとは、思いもよらなかった。

伊勢神宮の理解につながるのはもちろん、我が国の誇る匠の技術にもたっぷりと触れられる神宮徴古館伊勢神宮へ参拝される際には、ぜひとも「せんぐう館」と併せて見学されることをおすすめしたい。

 

・「電気鉄道」の威容を誇る・・・近鉄宇治山田駅

徴古館の見学を終え、外に出た。さすがに17時過ぎともなると参拝客も少なくなることから、昼間は10-20分間隔、毎時4本ある【51】宇治山田駅伊勢市駅行きのバスも、30分間隔に開いてくる。徴古館前から近鉄宇治山田駅へはバスで7分だが、歩いても20分程度。待っている間に歩けばバス賃も浮くので、歩くことにした。倉田山のなだらかな坂を下りていけば、程なく宇治山田駅付近の中心街に至る。「御幸道路」の名に恥じず、桜並木が目を楽しませてくれる歩道が整備されていたが、交通量の多い一般的な県道でもあった。中心街に入ったところで近鉄線の高架が姿を見せ、右へ折れると宇治山田駅のバスターミナルへ至る。

f:id:stationoffice:20180614204403j:image雄大かつ壮麗な宇治山田駅伊勢市内最大のターミナル駅

f:id:stationoffice:20180614204330j:imageかつての火の見櫓に「近鉄」の文字が輝く。駅前にはバスが並ぶ
f:id:stationoffice:20180614204317j:imageシャンデリアとステンドグラスが彩る駅舎。和の要素は殆どない

伊勢市駅宇治山田駅五十鈴川駅と3駅ある伊勢市ターミナル駅のうち、最も規模が大きく、乗降客数も最も多いのが中央に位置する近鉄宇治山田駅。このうちJR参宮線が乗り入れるのは最も西に位置する外宮前の伊勢市駅のみで、参宮線は海側の二見浦方面へ逸れていくが、近鉄線は山側へもう一歩踏み込み、バス交通の中心となる宇治山田駅、内宮最寄りの五十鈴川駅へと進んでいく形になる。

一つ手前、外宮最寄りの山田駅(→伊勢市駅)では国鉄(→JR)参宮線の裏手に駅を設けるしかなかった近鉄線は、伊勢市駅のすぐ東で参宮線を乗り越し、高架に上がったまま、高架駅の宇治山田ターミナルに到着する。地平駅の伊勢市駅に対し、高架駅かつ壮麗な西洋風の立派な駅舎が構える宇治山田駅は、今なおその威容を感じさせてくれる。いにしえの日本文化を伝える伊勢神宮に対し、時代の象徴であった電気鉄道のターミナル駅が西洋風というのはユニークな組み合わせであるが、純日本風の伊勢神宮へ向かうべく、先進技術を取り入れた電気鉄道で西洋風のターミナル駅に到着するというのは、その当時の最先端のトレンドであったわけだ。その西洋風の大きな宇治山田駅舎は、純和風の街並みが広がる宇治山田の街並みの中にあって、不思議と溶け込んでいるのは、伊勢の街の伝統と先進の融合を体現しているかのようだ。

駅舎内の天井は高く、余裕を感じる。天井にはシャンデリアがあしらわれ、優雅な雰囲気を醸し出している。繰り返すが、この西洋風の駅は、伊勢神宮の玄関口。和風の要素はほとんどないのが、却って電気鉄道の先進性を際立たせているように思う。

f:id:stationoffice:20180614204715j:image特急券を買い求める乗客の列が伸びる。新幹線連絡の需要も高い
f:id:stationoffice:20180614204711j:image構内にある鉄道模型ジオラマ宇治山田駅もバッチリ

f:id:stationoffice:20180614204944j:image近鉄特急の新たなスター、しまかぜも運転できる
f:id:stationoffice:20180614204706j:image名古屋・大阪への距離を感じさせる停車駅。急行でも辿り着ける

特急券の窓口には行列が伸びており、JRとは段違いの需要の高さを感じさせる。18時前ではあったが、近鉄特急で名古屋へ向かい、新幹線に乗り換えても東京到着は21時過ぎ。十分に東京へ日着出来る時間帯だ。名古屋行き・大阪行きとも毎時1~2本がコンスタントに運転されており、新幹線連絡をも含んだ広域輸送は完全に近鉄がシェアを握っている状況である。

宇治山田駅は、1931年の参宮急行電鉄線(現・近鉄山田線等)の全通と同時に開業し、1969年の鳥羽線開通・志摩線賢島への直通運転開始までの間、大阪・名古屋からの終着駅であった。山田駅(→伊勢市駅)で国鉄(→JR)参宮線に乗り換えれば、志摩半島の付け根にあたる鳥羽駅までは鉄道で行くことができたが、当時の参宮線は本数が少ないローカル線に過ぎなかったため、近鉄から志摩方面へ向かう乗客は専ら宇治山田駅三重交通バスに乗り換えるのが一般的であった。その当時の名残として、行き止まりの1番線に隣接するバス乗り場跡と、バス用のターンテーブルが今でも残っている。

f:id:stationoffice:20180614205243j:image1番線に隣接する旧特急バス乗り場。バスの部分まで上屋が覆う
f:id:stationoffice:20180614205252j:image現在ここを発着するバスはない。短編成のローカル電車が佇む
f:id:stationoffice:20180614205307j:image今でも動くターンテーブルブラタモリタモリのバスも回転
f:id:stationoffice:20180614205238j:image駅舎の壮麗さに比してホームは質実剛健

これは、鳥羽・志摩方面へのバスと近鉄線の電車をホーム対面で接続させるため、高架駅であるにも関わらず公道とスロープでつなぎ、バス乗り場を高架上に設け、かつ転回のためのターンテーブルを高架上に設置したことによるもの。これによって、電車→バスの乗り継ぎはもちろん、バス→電車の乗り継ぎも、乗客を乗せたままターンテーブルで転回することで、同一平面で乗り継げるようになっている。普通、電車とバスの乗り継ぎというと、電車を降り、改札口を抜け、バス乗り場へ移動し・・・といった流れになるが、ここ、宇治山田駅1番線においては、まるで急行と各駅停車を乗り換えるがごとく、数メートルの移動で乗り継げるようになっていた。「乗換が面倒やったら、バスを電車の隣に横付けしてしまえばええやないか」とでも言いたげな、大阪からどんどん線路を伸ばしてきた参急らしい、関西流の合理性がここにあった。

f:id:stationoffice:20180614202314j:plain宇治山田駅配線図。頭端式ホームの面影が残る

 

・鳥羽名物、大エビフライを味わう

18時前とあって空腹になってきたので、早夕飯をとることにした。宇治山田駅の観光案内所で聞いてみた所、「宇治山田駅の近くには飲食店が少ないため、海産物なら鳥羽、肉類なら松阪へ行く方が良い」との回答。まさにその通りであった。昨日に松阪牛回転焼肉へ行っていたため、今日は鳥羽へ・・・と思ったが、鳥羽名物・大エビフライの店は18時閉店。そしてなんと、宇治山田駅構内にも支店があるとのことだったので、支店へ行ってみることにした。「シュリンプキッチン 漣(さざなみ)」の暖簾をくぐると、出てきたのは目を見張るサイズのエビフライ。トンカツほどもありそう。一口齧ればエビの触感を口いっぱいに堪能でき、まさに海が口の中に広がるよう。

f:id:stationoffice:20180615195025j:imageこれぞ漁師町・鳥羽が生んだ大エビフライ定食!

f:id:stationoffice:20180615195021j:imageエビを切り開き、開き身にしたものを揚げている

しかしまあ、宇治山田も夜が早い町だが、この分だと鳥羽も遅くなさそう。 伊勢の人々は早寝早起きなんだろうか。鳥羽一郎が高らかに歌い上げるがごとく、このあたりの産業といえばやはり漁業。特に鳥羽は漁師町なだけに、夜も明けやらぬうちから活動が始まる漁師に合わせたスケジュールで町が動かざるを得ない。ミキモト真珠島にしても、鳥羽水族館にしても、観光客の夜が遅くないのは同じ。その町がどのように動くのかは、東京に住まう自分が思っているほど全国一律では全くないし、夜が遅い・早い、朝が遅い・早いには、どこも地域特有の事情があるのだろう。

 

(つづく)

15.三重交通【51】【55】外宮内宮線 -松阪牛の回転焼肉⁈/神都バスで行く内宮-#三重

・夕飯に困る宇治山田

宇治山田は、伊勢神宮鳥居前のイメージとは裏腹に、夕飯に困る街だった。というのも、大多数の観光客は旅館やホテルで夕食を食べるし、伊勢名物の伊勢うどんにしても赤福にしても夕飯に食べるものではないから店じまいが早いし、伊勢海老に代表される海産物にしても鳥羽や鵜方といった港町で食べる方がよほど旨いしで、宇治山田周辺で夕飯を出してくれる店のレパートリーが本当に乏しいのだ。選ばなければ店はあるが、せっかくだから地場のものを気軽に食べられるような店に入りたい。というわけで、18きっぷの強みを生かし、伊勢に着いたその日のうちに、再び参宮線に揺られることにした。目指す先は松阪。そう、三重県といえば松阪牛!牛肉といえば焼肉!という単純な発想だ。

17:52、伊勢市発。JR参宮線快速みえ24号名古屋行き。途中停車駅は下り鳥羽行きと行き違う多気の5分停車のみで、松阪へは24分後、18:16に到着。

f:id:stationoffice:20180603235658j:image再び快速みえに揺られて松阪へ

f:id:stationoffice:20180603235500j:image多気ドクター東海ことキヤ95系と交換。思わぬ珍客との遭遇

しかし参宮線はここでも近鉄に対して分が悪い。伊勢市を2分後、17:54に出る近鉄特急なら僅か14分後の18:08に着いてしまうし、18:08発の急行でも15分後、18:23に着いてしまう。多気の5分停車が無かったとしても参宮線快速みえは19分を要し、24分もかかっていては待避なしの近鉄普通とほぼ同じ。運賃も近鉄の400円に対して410円と、参宮線の方が10円高い。18きっぷが使えたり、新幹線と通し運賃にできる以外はやはり参宮線のメリットは少ない。伊勢市18時発では東京到着が21時を過ぎるし、観光の帰着時間帯を外した上りの快速みえはいかにもガラガラ。京都・大阪へは近鉄が直通とあって、やはり快速みえの生きる道は二見浦、多気鈴鹿および紀勢本線尾鷲方面など、近鉄が直通しない各駅と名古屋、そして東海道新幹線へいかにスピーディーにリレーするかにかかっている。

しかしながら多気での紀勢本線と快速みえの接続は概して悪く、1日4往復・名古屋直通の特急南紀ですらも松阪で近鉄に乗り換えてしまう乗客が少なくないという。幸い、単線区間が多いなかでも快速みえはほぼ1時間1本のパターンを確立しているので、JRのメリットである尾鷲方面の接続にはもっと気を使うべきだろう。特急南紀ばかりでなく快速みえ+紀勢本線普通も使えるようになれば、そもそもの本数が少ない(特急と普通を足してようやく1時間に1本程度)紀勢本線の利便性向上にも繋がる。

・松阪名物「回転焼肉」を味わう

日本一の牛肉のまちにして、現在の三越の源流たる越後屋の祖、三井高利を生んだ伊勢商人のまちとして名高い松阪市だが、駅前の雰囲気はお世辞にも活気があるとはいえず、有り触れた地方都市の駅前のそれであった。三越のふるさとではあるが百貨店は今の松阪には無く、最後まで百貨店の灯を守った三交百貨店松阪店も2006年にその歴史に幕を閉じた。ただ、駅前からして焼肉の香ばしい香りが漂い、焼肉だけでなく牛鍋(すき焼きではない)、しゃぶしゃぶといった牛肉料理の店が、駅前通りを外れた路地裏にも点々と店を構えているあたりは、いかにも「牛肉のまち」である。

ちなみに「松阪牛」は「まつざかぎゅう」との呼び方が定着してしまっているが、正しくは「まつさかうし/ぎゅう」と読む。地名も「まつさか」であり、「まつざか」「松坂」は誤記、誤読なので、現地へ行かれる際は要注意。

ただし、松阪駅近傍の「松坂城」は「坂」の字を使うように、江戸期以前は「松坂」であり、「まつざか」「まつさか」は混用されていた。これは大坂→大阪への改名と同じ理由で、「土が反る」「士が反する」に繋がる「坂」の字を、明治期に「阪」の字へ変更したことによる。武士の失脚という世相を反映したものと言えよう。

名古屋のデパートは「松坂屋(まつざかや)」であるが、これは松坂屋の前身、「いとう呉服店」が江戸の呉服店松坂屋」を買収し、江戸市中での知名度が高かった屋号を引き続き用いたことによるもの。江戸の松坂屋の由来は創業者の出身地が伊勢松坂であったことによるもので、一周回ってルーツを伊勢松坂に求めることはできるが、これも「まつさか」「まつざか」「松阪」「松坂」の混乱を招いている一因であろう。

f:id:stationoffice:20180603235815j:image「MATSUSAKA」であって「まつざか」ではない

松阪駅から歩くこと10分、「一升びん 宮町店」が今回のお目当て。こちらは駅の裏手にあたり、表口にあたる市街地に「本店」「平生町店」があるものの、こちらは通常のスタイルであり、「回転焼肉」は宮町店ならではなのだという。

席に座ると、一人用の網焼きが目の前にあり、透明の保冷ケースの中を色々な肉が右から左へと流れていくという、何ともユーモラスな光景が広がっていた。目当ての肉が来たら、ボタンを押すとケースの蓋が開くので、あとは回転寿司の要領で皿を取っていく。ほか、ライスやスープ、飲み物は店員さんをボタンで呼び出し、持ってきてもらうスタイルだ。

f:id:stationoffice:20180604001611j:imageこれが松阪名物「回転焼肉」ちょっと頼みづらい部位でも目で見て取れるのが新鮮
f:id:stationoffice:20180604001603j:image極上の松阪牛。最高級皿でも1,000円と非常にリーズナブルだ
f:id:stationoffice:20180604001607j:image目立つ看板と香ばしい匂いが道行く人を誘う

極上の松阪牛を、最高級の皿でも1,000円で食べられる。筆舌に尽くしがたい感動が、網の上で香ばしい匂いを上げている。これ以上の記述は蛇足だろう。三重といえば松阪牛、牛肉といえば焼肉。松阪駅からも近いので、鉄道旅でもオススメの名店だ。

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・内宮鳥居前:宇治を歩く

翌朝、伊勢市駅前のバスターミナルへ再びやってきた。今日はここから例の「神都バス」に乗り、いよいよ内宮へ向かう。内宮参拝を終えた後は鳥居前町の宇治を歩き、神宮徴古館(ちょうこかん)を見学する予定を立てていた。神宮徴古館が何たるかは後述する。

伊勢市駅前から内宮へ向かう三重交通バスは、2系統併せて日中10分間隔と極めて頻発。【51】徴古館前(御幸道路)経由は所要20分で、伊勢市内の市街地を経由していくため、毎時4本が設定されている。一方、【55】庁舎前(御木本道路)経由は所要13分で、外宮と内宮をほぼ直線で結んでいるが、経由地に乏しいために毎時2本のみ。それぞれ役割が違うが、内宮前行きであることに変わりはないので、観光地のバスにありがちな時刻のバラつきや経由地の複雑さといったわかりにくさがない。長年参宮客を迎えてきた三重交通ならではの、外来の者にも利用しやすいバス網が築かれている。

  • [伊勢市駅前10:21~16:21 内宮前行きバス発車時刻]
  • 01 【51】徴古館前(御幸道路)経由 内宮前行き
  • 11 【51】徴古館前(御幸道路)経由 内宮前行き
  • 21 【55】庁舎前(御木本道路)経由 内宮前行き
  • 31 【51】徴古館前(御幸道路)経由 内宮前行き
  • 41 【51】徴古館前(御幸道路)経由 内宮前行き
  • 51 【55】庁舎前(御木本道路)経由 内宮前行き

f:id:stationoffice:20180605194513j:image神都バスは時刻表でも緑色で書かれており、一般バスとは明確に区別されている

f:id:stationoffice:20180605194604j:image駅前バスターミナルで時間調整するバスたち

やや早めの9:25頃、伊勢市駅前バスターミナルの10番のりばに立つ。駅舎内でも「伊勢神宮行き」として大書きされ、駅舎直結で雨に濡れない一番いい乗り場である。しばらくすると、下調べ通り、三重交通自慢の神都バスがやってきた。普通のバスが屯しているなかで、見た目がまんま昔の路面電車である神都バスはいかにも目立つ。登場当初は一般バスとは一線を画す別格の扱いを受け、追加料金を払わないと乗れなかったが、現在は一般バスと同じダイヤに組み入れられ、特別料金は不要になった。ただ、神都バスが運用されるダイヤは固定であり、HPでも公開されているので、狙って乗ることもできるのはありがたい。一般バスと全くの共通運用だと、10分間隔の中にあっては、運営が良くないと遭遇できないし。

9:36、伊勢市駅前発。三重交通バス【51】徴古館前経由内宮前行き。 

f:id:stationoffice:20180605194852j:image屋根のアールがいかにも昔の電車らしいが、現代らしくちゃんとノンステップバス
f:id:stationoffice:20180605194856j:imageレトロモダンを感じさせる車内

伊勢市駅前出発の段階で、車内には参拝客が10名ほど。外宮前で3名ほど乗せ、座席が程よく埋まる。外宮から内宮への乗車は、伊勢神宮参拝のしきたりに沿ったルートだ。途中バス停での乗降は午前中とあってあまりなく、9:56に内宮前到着。

内宮前は国道の突き当たりとあって全てのバスが折り返すため、小さなバスターミナルになっている。また、多くの参拝客が利用するため、バス停を取り囲むように飲食店や喫茶店が発達している。多くの参拝客が内宮参拝と同時に向かう「おかげ横丁」とは少々離れており、おかげ横丁の方は観光に特化した設えになっているが、こちらはあまり洒落っ気はなく、機能的な店舗が目立つ。昨日松阪まで足を伸ばして訪れた「一升びん」の支店もあるが、内宮の厳かな雰囲気と違って、やはり周りに合わせてか、そうなってしまうのか、大衆酒場的な雰囲気。バス待ちの間にサッと利用できるようになっているのだろう。

内宮前を途中経由地とするバスはないため、多数のバスがバラバラのタイミングで到着してくるのを全部受け止めるべく、降車バースが多数用意されている。一方、【51】【55】がきれいな10分間隔で宇治山田駅伊勢市駅へ発車していくのをはじめ、発車時はある程度タイミングを分散できるために乗車バースは絞られていて、人の流れを単純化する工夫がなされている。駅へのバスがあちこちから発車するようでは、観光客にとっては不親切になってしまう。ここでも、長年参拝客を迎えてきた経験が役に立っているのだろう。

f:id:stationoffice:20180605200719j:image内宮前に到着。多数の到着バスを捌けるよう、到着したバスは縦列に並ぶ
f:id:stationoffice:20180605200715j:imageデザインの規制が緩いリア部分は更に電車に近い雰囲気。ダミーのドアまである
f:id:stationoffice:20180605200724j:image道自体が内宮に突き当たって終端であることがよくわかる
f:id:stationoffice:20180605200729j:imageいかにも鳥居前といった雰囲気は、ここでも意外と薄い

バスを降りると、目の前が宇治橋宇治橋五十鈴川を渡ればそこは内宮であり、いよいよ天照大神の領域である。20年に1度の式年遷宮では鳥居から何から何まで建て替えられるが、宇治橋も例外ではない。ただ、宇治橋の架け替えは式年遷宮の4年前とされており、これは1949年に予定されていた式年遷宮が戦後の混乱のため4年延期となったのに対し、「宇治橋の架け替えだけでも」という地元の声により、宇治橋の架け替えだけが予定通り執り行われたことによるもの。以来、式年遷宮の4年前に宇治橋の架け替えが行われるようになり、「宇治橋が架け替えられると式年遷宮が近い」という機運が生まれるようになったのだという。

f:id:stationoffice:20180605201538j:image宇治橋を渡ると内宮の敷地。神域と此岸は明確に分けられている

f:id:stationoffice:20180605201548j:image清らかな五十鈴川を渡る。見事な桜が咲いていた

f:id:stationoffice:20180605201609j:image美しく手入れされた「神苑
f:id:stationoffice:20180605201552j:image静寂が神々しさをより高める
f:id:stationoffice:20180605201616j:image先程渡った五十鈴川の流れで手と口を清める。手水鉢の原点だ
f:id:stationoffice:20180605201621j:image本殿は拝殿の奥であり、ここでも一般人は直接見られない
f:id:stationoffice:20180605201533j:image心身を清めて再び宇治橋を渡り、浮世へ戻っていく

伊勢神宮には、神社仏閣でありがちなおみくじがない。このことは伊勢神宮の公式でも触れられており、「八百万の神々の中で最も高位である天照大神のもとへ参拝に来た者が『大吉』にならないわけはないから」なのだそう。つまり、参拝しさえすれば全員大吉なのだ。おそるべし天照大神

参拝の途中、「宮内庁関係者が参拝するので一般の参拝者は道を左右に空けるように」という指示が神宮衛士(じんぐうえじ)から発せられる場面があった。まさに時代劇の「下に、下に」さながらである。意外にも洋装の神宮衛士が道を整理すると、これまた意外にも洋装の宮内庁関係者が神宮衛士の護衛を受けながら、拝殿へと向かっていった。様子を観察していると、拝殿の戸が開かれ、一般参拝者よりも一段階奥から本殿に向かって祈願する宮内庁関係者の様子が見られた。興味深そうにその様子を見物するばかりであった一般参拝者であったが、それを仕切る衛士の方曰く、「宮内庁の方が参拝されるのは、皆様のご家庭の神棚やお仏壇に皆様が拝み、日頃の報告などをなさるのと同じですから、何も特別なことではないのです」という。なるほど、スケールが大きすぎて実感に乏しいが、伊勢神宮そのものが皇室にとっては「家庭の神棚」と同じなのであり、御先祖様たる天照大神へのメッセージを、皇室の方々の代わりに宮内庁の方がお届けしているに過ぎないのだ。だから事前告知も一切なし。伊勢神宮にとってはあくまで日常の出来事なのだろうと、妙に納得したのであった。

・参拝客で賑わうおはらい町、おかげ横丁

再び宇治橋を渡り、内宮前バス停に戻ってきた。宇治橋を背にして左は先ほどの内宮前バス停であるが、参拝客の流れは明らかに右へ向かっている。右へ向かえばそう、これまた古くから参拝客を迎えてきた鳥居前町・宇治の本拠たる「おはらい町」、その中心にあるのが赤福の本拠たる「おかげ横丁」である。

f:id:stationoffice:20180606183452j:image美しく修景が進んだおはらい町通り。江戸時代の景観が蘇った

おはらい町とは、「お祓い」のために伊勢へやってくる参拝客の相手をする店が連なっていたことから、お伊勢参りが一般にも広まった江戸期にそう呼ばれ始めたことによるもの。また、お伊勢参りは「おかげ参り」とも呼ぶ。これは八百万の神々の「おかげ」で生かされている御礼を、八百万の神々の最高位である天照大神へ伝える参詣である──という意味合いが込められている表現だ。おはらい町の真ん中にあった赤福が、戦後の観光客の流れの変化で落ち込んでいたおはらい町を復活させるべく修景に取り組んだ際、赤福が運営する範囲に、その「おかげ参り」に訪れた人々を迎えるという意味合いで「おかげ横丁」の名を付けたというわけ。従って、本来は鳥居前通り全体を「おはらい町」、その中で赤福が運営する範囲を「おかげ横丁」と呼ぶのであるが、両者は明確な境もなく鳥居前通りとして一体化しているため、混同されることも多い。

f:id:stationoffice:20180606183416j:imageおはらい町通りの中心、赤福本店

平日ではあったが、道幅の余裕があまりないこともあって、おはらい町通りは参拝客でごった返していた。その中でも中心となるのが、江戸時代からの灯を守る常夜灯と、その目の前にある赤福本店である。ここでは通常見られる箱入りの赤福のほか、その場で食べる用に皿に乗ったものや、季節の赤福など、本店をはじめ赤福の各店では様々な赤福を提供している。なかでも正月以外の毎月1日のみ振舞われる朔日餅(ついたちもち)は、赤福本店ならではの名物となっているそう。遠方に住んでいるとなかなか朔日餅に触れる機会はないが、一度は御目にかかりたいもの。

歩きっぱなしで少々くたびれたので腰掛けに座り、桜の季節ならではの「赤福のおしるこ」を注文した。赤福といえば、その名の通り赤みがかかった甘めのこしあんが印象的だが、それをそのままおしるこにしたような感じ。液体なので口いっぱいに赤福ならではの甘みが広がり、歩き疲れた身体に染み渡ってゆく。

f:id:stationoffice:20180606183746j:image香ばしく焼かれたお餅が赤福の甘みを引き立ててくれる
f:id:stationoffice:20180606183750j:image店先で楽しむ赤福はひときわ美味

昔の旅人も、きっとこうして店先で赤福を楽しんでいたことだろう。時を超えた出会いが神宮の外でも待っているのは、なかなかに愉快だ。

 

(つづく)

14.三重交通神都線・伊勢電気鉄道線 -神威に守られた電車が走った町- #三重

 ・「神都」を結んだ・・・三重交通神都線

その町で何かが盛んであることをPRするとき、或いは町の雅称として、「●都」という表現がよく使われる。自分が知っているだけでも、「学都仙台」であるとか「楽都郡山」「雷都宇都宮」「柳都新潟」といった感じ。中でも仙台市は『学都仙台』のキャッチフレーズを使っていて、仙台市バスは『学都仙台フリーパス』なる通学定期券を発売しているくらい、市内では定着した表現だ。

しかし、これら「●都」たちは、伊勢神宮のお膝元たる伊勢市、かつては宇治山田市を指す「神都(しんと)」ほどには、その歴史の長さも、言葉の威光も及ばないだろう。何しろ、宇治山田は伊勢神宮遷座して以来、一千年以上も「神の都」であり続けているのだから。そして、その「神都」の名を頂いてかつて走った電車と、今も走るバスがある。

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f:id:stationoffice:20180601202146j:imageかつて走った神都線の電車を模した「神都バス」。トロリーポールも再現され、電車の雰囲気たっぷりだ

伊勢神宮は、天照大神を祀る「内宮(ないくう):豊受大神宮」と、豊受大神(とようけのおおかみ、食事をはじめとする衣食住の神とされる)を祀る「外宮(げくう):皇大神宮」の大きく二つに分かれており、内宮と外宮は5kmほど離れている。そして、外宮→内宮の順に参拝するのが一般的であり、片方だけ参拝するのは片詣りとよばれ、縁起が悪いとされる。この二つの宮を結ぶべく、かつて伊勢の街を走った電車が三重交通神都線、今の三重交通バス【51】【55】外宮内宮線というわけだ。

明治以降、国家神道の隆盛と鉄道の発達に伴い、伊勢神宮の参拝客は増加の一途を辿った。それと共に外宮と内宮を行き来する交通量も増加の一途を辿り、参宮線山田駅と外宮、内宮を結ぶ交通機関が求められた。こうして1903年に最初の区間が開業し、1914年に内宮鳥居前の宇治(うじ)から内宮前まで到達、神都線本線が全線開通した。東京都電大阪市電と前後する、日本で7番目の電気鉄道の開通であり、この時期の伊勢がいかに重要地であったかがわかろうというもの。

また、外宮内宮線だけでなく、現在のCANばす(伊勢神宮―二見浦―鳥羽水族館ミキモト真珠島といった伊勢地域の観光地を結ぶ観光周遊バス)の原型ともいえる二見線、および朝熊山(あさまやま)へ向かう朝熊線といった支線が存在していたのも、特筆すべき事項であろう。二見浦(ふたみがうら)は天照大神が伊勢で初めて降り立ったところであり、朝熊山伊勢神宮の鬼門(北東)にあたるため、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」と言われるほど深い信仰の対象であった。両者とも伊勢神宮の信仰と密接に結びついたところであり、この二つへも神都線の線路が伸びたのはある種当然といえる。二見へは1903年の開業当初から、朝熊山へは1925年に朝熊登山鉄道が平坦線・ケーブルとも開通させたものを1928年に合併し、最盛期を迎える。山田駅前を起点に内宮前、二見、平岩(ケーブル下)へ、また内宮から二見浦へ向かう乗客のために、内宮前―二軒茶屋(二見線接続)を結ぶ電車が各30分間隔で走っていた。

f:id:stationoffice:20180526131116j:plain最盛期の神都線ネットワーク(朝熊登山鉄道ケーブルカー含む)と、現在の三重交通外宮内宮線 ※Google mapに加筆。ただし線路の位置は必ずしも正確なものではありません。

しかしながら、戦時体制が色濃くなっていくにつれ、行楽色が強かった朝熊線が1944年に休止の憂き目に遭う。1945年の宇治山田空襲では市街地の5割を消失するという、電車も含めて大きな被害を受けたが、伊勢神宮は外宮・内宮とも軽微な被害に留まった。神威に守られたかのような神都線であったが、1959年の伊勢湾台風でまたも被害を受けたことが引き金となったか、この頃からバス転換の論議が加速。1961年に残る本線・二見線が廃止され、神都線は姿を消した。

伊勢神宮そのものも、かつての国家神道の総本山から、戦後の価値観の変化によって「伊勢志摩リゾート」の主要目的地の一つへと役割が変わり、伊勢志摩観光における比重も低下した。1955年には国家神道のイメージが強く、伊勢神宮門前町二つの名をそのまま冠していた「宇治山田市」を「伊勢市」へ改称したことは、この流れを象徴していると言えるだろう。1966年にジャスコ伊勢店が開店し、追って1969年には三交百貨店が開店し、伊勢市駅前を二つの大型小売店が囲むようになった。伊勢神宮が小さくなったり移動したわけではないので、「神都」であることに変わりはなかったが、鳥居前町の宇治山田でさえも、もはや伊勢地域の中心都市という役割の方が強まっていたのである。

神都線が姿を消した1961年とは、ちょうどモータリゼーションが到来した時期にあたる。1964年にかつて朝熊線が目指した朝熊山へ有料道路・伊勢志摩スカイラインが開通し、翌1965年には志摩方面へ向かう有料道路・伊勢道路(現在は無料)が開通した。これら有料道路の開通と神都線の廃止によって、伊勢志摩を周遊する観光客の流れは、三重交通バスが担うことになった。当時は近鉄線が宇治山田止まりであったこともあり、宇治山田より先の鳥羽・志摩方面へは、神都線と同じ三重交通によるバスが連絡していた。宇治山田まで近鉄特急、そこから三重交通バスという観光客の流れにあって、伊勢神宮周辺のみを走る三重交通神都線は、もはや観光客の流れにそぐわない面があったのかもしれない。

しかしながらモータリゼーション一辺倒というわけでもなく、1969年には近鉄鳥羽線が開通。宇治山田止まりであった近鉄線と、近鉄でありながら離れ小島であった志摩線(鳥羽~賢島)が結ばれ、大阪・京都・名古屋から伊勢志摩を巡る鉄道網が整備された。1970年の大阪万博開催を控え、大阪都心でも難波線が開通するなど、近鉄各線では大型投資が相次いでいた時期であった。大阪万博で大阪・京都を訪れた観光客が、難波線鳥羽線の開通によって伊勢志摩へ周遊する効果をもたらした。

また、鳥羽線の開通によって、かつての神都線本線・楠部駅の至近に五十鈴川(内宮前)駅、朝熊線・朝熊村駅の至近に朝熊駅が開業した。かつての神都線が担った役割の一部を、鳥羽線が再び担うことになったのは、偶然ではないだろう。これら近鉄による伊勢志摩リゾート開発は、1994年の志摩スペイン村のオープンで集大成を迎えることとなり、今日に至るのである。

・外宮鳥居前:山田を歩く

以上が外宮・内宮を中心とした宇治山田市街の交通の概略である。前置きが長くなったが、伊勢市駅前から出発し、外宮→内宮の順に参拝することにする。伊勢市駅に着いたのが13時過ぎであったため、初日は外宮のみ参拝、翌日に内宮の参拝という行程になった。

f:id:stationoffice:20180531205608j:image伊勢市駅前バスターミナル。左の旅館がかつてジャスコ伊勢店、右の三交インがかつて三交百貨店伊勢店であった
f:id:stationoffice:20180531205604j:image外宮前経由内宮前行きは【51】徴古館前経由、【55】庁舎前経由合わせて日中10分間隔ときわめて頻発

f:id:stationoffice:20180531205930j:image伊勢市駅前の鳥居。外宮まで徒歩6分(夜に撮影)。学習塾や銀行が建ち並ぶ、意外と「普通の駅前」である

外宮最寄りの伊勢市駅周辺を「山田」という。これに対し内宮周辺を「宇治」といい、両者を合わせた地名が「宇治山田」というわけだ。先ほども触れたが、1955年までは「宇治山田市」であったわけで、近鉄宇治山田駅をはじめ銀行支店など、今でも宇治山田を名乗る施設は多い。宇治と山田は近接しているものの、鉄道駅が多数立地するために外来の者が多く、商工業の中心地としての機能も担う山田と、鉄道駅や高速道路などから離れ、内宮鳥居前町の機能にほぼ特化する宇治とでは気質が違うという。そのあたりも、今回じっくり観察してみようと思う。

その山田の玄関口、伊勢市駅から外宮鳥居前までは、駅前の表参道をまっすぐ歩くこと6分ほど。しかしながら、90年代までジャスコ伊勢店(現在は郊外に移転)と三交百貨店伊勢店(閉店)が駅前を囲んでいたように、伊勢市駅前は鳥居前町というよりも、伊勢地域の商業地区の役割も強いためか、思ったより鳥居前町の色は濃くない。駅前のバスターミナルを渡ると何の変哲もない学習塾だったり、銀行の支店だったり。それでも表参道をしばらく歩くと、民芸品店や洒落た喫茶店が散見されるのは、観光地らしい。ただ、表参道の賑やかさだけであれば出雲大社太宰府、宮島の方がよほど賑わっていて、「日本一の神社前」の鳥居前とは思えない。この理由は、後ほど触れることにしたい。

 

f:id:stationoffice:20180601185020j:image小さな橋を渡るといよいよ外宮
f:id:stationoffice:20180601185031j:image正式名称「豊受大神宮(とようけだいじんぐう)」
f:id:stationoffice:20180601185016j:image伊勢神宮の鳥居は意外にも簡素なもの。20年ごとの式年遷宮で新しくすることもあるだろう
f:id:stationoffice:20180601185036j:image前回の式年遷宮まで宮が建っていた、その名も「古殿地(こでんち)」
f:id:stationoffice:20180601185028j:image本殿は拝殿から更に奥にあり、一般人は直接見ることはできない
f:id:stationoffice:20180601185051j:image本殿・拝殿を囲む板垣。式年遷宮から数年なのでまだ新しい
f:id:stationoffice:20180601185024j:image式年遷宮を紹介する「せんぐう館」に隣接する池の上の舞台。神楽などの舞が奉納される
f:id:stationoffice:20180601185041j:image式年遷宮を経ても池や樹木の佇まいは変わらない
f:id:stationoffice:20180601185047j:image新しいながらも景観に溶け込んだ「せんぐう館」

・競合に敗れて姿を消した・・・「伊勢電気鉄道・大神宮前駅

はじめて伊勢神宮(外宮)へ参拝し、その後隣接する「せんぐう館」を見学すると、もはや夕方になっていた。

外宮を出てすぐの所に、どっしりとしたNTTの伊勢支店があった。ただ、古い街らしく幅が狭い建物がびっしりと立ち並ぶ中にあって、どうにも立派すぎやしないか。何となく違和感を覚え、近寄ってみた。

f:id:stationoffice:20180601190633j:image外宮のすぐ隣に立派なNTT伊勢志摩ビルが建っている
f:id:stationoffice:20180601190629j:image電電公社時代からのどっしりとした佇まいが印象的だ
f:id:stationoffice:20180601190625j:imageNTTの向かいは小さな建物が並ぶ狭い街。しかし、この角を左へ曲がると…
f:id:stationoffice:20180601190618j:imageそこはかつての伊勢電気鉄道・大神宮前駅跡地。線路跡らしい緩いカーブが伸びる

そう、いやに広い敷地だと思ったら、そこはかつての伊勢電気鉄道大神宮前駅跡地なのであった。伊勢電気鉄道は、伊勢神宮を目指した3つの鉄道のうち、競争に敗れ廃止された唯一の鉄道である。

伊勢電気鉄道、通称「伊勢電」とは、内陸の亀山を経由していた関西本線に対し、四日市~津を短絡するため、1915年に最初の区間が開通した「伊勢鉄道」を源流とする。大阪から青山峠を越えて伸びてきた大阪資本の参宮急行電鉄(通称『参急』、現・近鉄大阪線・山田線など)に対し、地元・伊勢を発祥とする伊勢電は激しい乗客獲得競争を繰り広げた。参急は伊勢電に対し「参急は伊勢へ、伊勢電は名古屋を目指すことにして、役割を分けたらどうか」と持ち掛けたこともあったが、「伊勢」を社名に冠する伊勢電が「伊勢神宮」を大阪資本に譲るわけにはいかなかったのか、伊勢電はこれを拒否。1930年には逆に参急と同じ山田へと延伸するに至り、津~山田(大神宮前)間で国鉄・参急・伊勢電の3社による熾烈な乗客獲得競争がここに勃発するのである。 

しかしながら、伊勢電は大神宮前延伸で資金を使い切ってしまい、名古屋を目前にした桑名から先へ延伸することができなかった。大阪を始発とする参急と違い、伊勢電は大都市を後背地に持たなかったため、乗客数があまり増えなかった。また、独自区間であった四日市~津間と違い、延伸区間の津~大神宮前間は国鉄か参急、あるいは両方と競合する区間であったため、多額の資金を要した割にここでも乗客が増えなかった。短期間で乗客の増えない路線を複数建設したことで伊勢電は経営難に陥り、大神宮前延伸から僅か6年後の1936年、伊勢電は参急に合併されてしまう。伊勢電の独自区間であった江戸橋(津の1つ隣)~桑名は参急に取り込まれ、江戸橋~大神宮前間は「参急伊勢線」として分離された。伊勢電が果たせなかった名古屋延伸は合併2年後の1938年、参急の子会社・関西急行電鉄によって実現する。

その後、暫くは参急のローカル線として存続していたものの、戦時体制の深度化に伴い、1942年に山田線の並行路線と見做された伊勢線新松阪~大神宮前間が廃止。国家神道の隆盛に沸く山田のなかで最も外宮に近い、輝かしいターミナル駅として生まれたものの、1930年の開業から僅か12年、そのうち「伊勢電本線」として特急電車が駆け抜けたのはたった6年という、あまりに短命かつ不運な駅であった。伊勢線として残った江戸橋~新松阪間も1961年の伊勢湾台風によって廃止となり、伊勢電が建設した路線で今も残るのは、近鉄名古屋線江戸橋~桑名間、および神戸(かんべ)支線(現・近鉄鈴鹿線)のみである。

f:id:stationoffice:20180601190622j:imageたった12年しか電車が来なかった歴史を静かに語る

・鉄道が日本の発展をリードした時代

1930~1960年にかけての30年間は、戦争を挟み、日本の鉄道が大きく発展した時期にあたる。国鉄各線は戦争遂行のための貨物輸送に沸き、参急や東武日光線など、国威発揚のための観光地を結ぶ電気鉄道が相次いで開通したのがこの時期だ。同時に、沖縄編で紹介した沖縄電気軌道や、今回紹介した神都線、そして伊勢電のように、急激な時代の変化についていけなかった鉄道が姿を消したのもこの時期である。

我が国の発展にとって、鉄道は物心両面で大きな役割を果たしてきた。東京は世界的に見ても鉄道の機能に依存する度合いが高く、都市鉄道は欠くことのできないインフラである。それと同時に、時速285kmで走る高速鉄道が数分間隔で行き交う東海道新幹線に代表されるように、高速鉄道も同様に欠くことのできないインフラである。そして、都市鉄道にとっても、高速鉄道にとっても、その発展の基礎にあるのは、伊勢電、参急、そして近鉄が築き上げてきた、電気鉄道の技術だ。

山々をトンネルで穿ち、平坦地を直線で駆け抜け、都市間を高速で結ぶという、参宮線のように地形に従順な蒸気機関車とは似て非なる電気鉄道の技術が、戦前という早い段階でここまで発展してきたからこそ、戦後の高度経済成長を成し遂げられたと言えるだろう。

また、都市内にきめ細かく駅を設け、待たずに乗れる頻繁運行の「地下鉄」に代表される「電車」。その基礎をつくったのは、神都線のような「小さな電車」たちにある。こうした電車が各地で育ったからこそ、都市内交通としての「電車」が、今日の大量・高速・高頻度化を達成した「都市鉄道」に結実しているのだと思う。

f:id:stationoffice:20180601202459j:image
f:id:stationoffice:20180601202503j:image「汽車」と「電車」が肩を並べる伊勢市駅

神都線や伊勢電の跡は、バスや近鉄電車などで容易に辿れる。伊勢を歩く機会があれば、日本の発展を支えながらも消えていった電車たちを偲んでみてはいかがだろう。

(つづく)

13.JR参宮線 -伊勢神宮を目指した3つの鉄道- #三重

一生に一度はお伊勢参り・・・というフレーズは、一度は耳にしたことがあるだろう。今では大げさに聞こえるが、鉄道発達以前の伊勢詣は、間違いなく一生ものの出来事であった。

伊勢神宮といえば、天皇家のご先祖様たる天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る、わが国で最も高位の神社であるが、民衆の参拝が盛んになったのは江戸時代以降と、その長い歴史に比して比較的新しい。神宮は天皇家の御先祖をお祀りする、いわば皇室の氏神であったため、古代は御所の中にあり、当然、民衆の参拝はできなかった。その後、民衆の信仰心に神宮が応える形で、役人、武士などの階級層に、そして民衆へと徐々に解放されていったという歴史があるため、日本の神社の最高位でありながら、長く民衆と神宮の距離は離れていた。それだけに、伊勢神宮への参拝は庶民にとって憧れであり続け、太平の世を迎えた江戸時代になり、伊勢詣を名目とした旅がようやく民衆にも広まったのだ。ただ、交通手段がほぼ徒歩に限られる江戸時代の伊勢詣の中心は、距離的に近い近畿からが中心であったと言われる。

明治に入り鉄道の時代を迎えると、遠隔地からも参拝が容易になった。参宮鉄道伊勢神宮外宮(げくう)最寄りの山田駅(現・伊勢市駅)に達したのは1897年であり、これは参宮鉄道の親会社的存在であった関西鉄道(現・JR関西本線等を敷設した私鉄)が名古屋―網島(大阪)間を全通させたよりも1年早い。東海道本線の全通(1889年)からわずか8年後の出来事であり、いかに当時の伊勢が重要拠点として意識されていたかがわかろうかというもの。1907年の国有化以降、それまでの関西鉄道沿線のみならず、参宮線には、大阪・京都はもちろん、東京や宇野(岡山県。四国航路の本州側ターミナル)からも直通列車が運行され、特に国家神道の華やかりし時代は国内の最重要路線に匹敵する幹線であった。当時の近代文明の象徴といえる鉄道の発達によって、列車に乗りさえすれば「一生に一度のお伊勢参り」ができる時代がやってきた。このことは同時に、欧米列強=キリスト教勢力の脅威に晒されたなかで、神道国家神道として権威を高め、国内の隅々まで広める効果をもたらした。

f:id:stationoffice:20180523175803j:image開業以来外宮の玄関口の役割を果たす山田駅は「伊勢市駅」に改称されたが、隣駅には山田の名が残る(伊勢市)

1930年には参宮急行電鉄(現・近鉄山田線等)開業によって大阪まで2時間で結ばれ、元々信仰が根強かった近畿が更に近くなった。追って1938年には関西急行電鉄(現・近鉄名古屋線等)が開業し、街道としての東海道に沿った名古屋へも短縮された。これら電気鉄道の相次ぐ開通は伊勢詣をさらに身近なものとし、中部・関西では修学旅行の行先の定番となるまでになった。

このように、明治の蒸気鉄道(参宮鉄道)、昭和の電気鉄道(参宮急行電鉄・関西急行電鉄)といった鉄道の発展が、伊勢神宮の発展とリンクしているということは、あまり知られていない。言い換えれば、鉄道の発展なくして、今日の伊勢神宮は無かったと言っても過言ではないのだ。

f:id:stationoffice:20180523181135j:image乗降客数が多い近鉄が神宮から離れた奥に追いやられているのは、JRの方が先に開業したという歴史的経緯による(伊勢市)

式年遷宮に代表される伊勢神宮の動静は今日に至るまで国民の関心事であり、文字通り日本人の心のふるさとであり続けている。数多の鉄道が競うように目指し、戦前は国家神道の浸透と共に隆盛を極めた伊勢神宮とは、そして「神都」と呼ばれた鳥居前町・宇治山田とは、いったいどんなところなのか。その伊勢へ一番乗りを果たしたJR参宮線で、はじめてのお伊勢参りに出かけることにした。

・現代伊勢路の起点、名古屋

品川5:10発の普通小田原行きでスタートし、小田原、熱海、浜松、豊橋と4度の乗り継ぎを経て、名古屋駅に着いたのは10:58。ここまでの東海道本線は今回の本筋と関係ないので割愛するが、早朝か夕方の時間帯は熱海発浜松行き(所要2時間半)のような足の長い普通列車が結構多いので、複数回の乗り継ぎでもさほど苦にならない。

f:id:stationoffice:20180523223219j:image相模灘に昇る朝日(根府川)
f:id:stationoffice:20180523223225j:image熱海発浜松行き普通。走行距離は152.5kmに及ぶ(熱海)

さっそく今回の主役である参宮線直通「快速みえ」が発車する関西本線ホーム13番線へ移動し、新幹線のみならず在来線ホームにもしっかりと存在するきしめんスタンドできしめんを掻き込む。色が濃い目のつゆはいかにも関東風だが、もちもちとした太く平たい麺に花かつおをまぶした様は、うどん文化の関西風。文化の潮目であることが、このきしめん一杯からもわかる。この一杯を掻き込まないと、やはり名古屋に来た気がしない。

f:id:stationoffice:20180523223434j:imageうどんでもなくそばでもない、名古屋はやはりきしめん(名古屋)

今でこそ名古屋は東海道新幹線東海道線から関西本線参宮線、そして近鉄名古屋線が分岐する、関東と伊勢を結ぶ中継地点だ。しかし江戸時代の東海道(街道)は名古屋南郊の宿場であった熱田(天皇家を象徴する三種の神器の一つ:草薙神剣を祀る熱田神宮で名高い)から、三重県の玄関口にして最初の宿場:桑名まで船でショートカットするのが一般的で、現在の名古屋駅近辺は素通りされるばかりであった。伊勢神宮の一の鳥居が今日でも桑名にあるのは、やはり桑名が「伊勢国(いせのくに)の入り口」として認識されていたからに他ならない。熱田に代わり名古屋駅付近が発展し始めるのはやはり東海道本線の開通、そして関西鉄道関西本線の分岐点となったことが契機であり、名古屋もまた鉄道の発展なくして今日の地位を確立し得なかった地なのだ。

鉄道の発達と共に、桑名や四日市(京へ向かう旧東海道から伊勢路が分岐したのは四日市南郊の『日永の追分』である)に代わって名古屋が東海道伊勢路の分岐点の地位を担うようになり、あまつさえ伊勢銘菓として名高い「赤福」が名古屋駅の定番土産として売られるようになった、というわけ。繰り返すが、名古屋が伊勢路の起点になったのは、せいぜいここ100年の話でしかないのである。

f:id:stationoffice:20180524010756j:imageいまや名古屋駅の定番土産となった伊勢名物「赤福」。赤福本店は伊勢神宮内宮の鳥居前町、おかげ横丁に構える

・「汽車」と「電車」

名古屋駅での約40分の乗り継ぎの間にきしめんを食べ終え、いよいよ快速みえ7号、鳥羽行きに乗り込む。快速みえで名古屋〜伊勢市は約1時間30分・運賃2,000円と、並行する近鉄(特急約1時間20分・運賃2,770円、急行約1時間40分・運賃1,450円)に引けを取らない。

しかし、快速みえが1本/hなのに対し、近鉄特急・急行はそれぞれ2〜3本/h(大阪方面行きも利用できる桑名・四日市・津などへは更に1〜2本/h増える)という高頻度運転であり、このこともあって三重県内でのJRは陰が薄い。特に三重県最大の都市・四日市(津ではない)の駅はJRと近鉄で約1km離れているが、市街地は完全に近鉄側に形成されており、近鉄四日市駅は百貨店も併設するターミナル駅として機能しているが、JR四日市駅はうらぶれている。皇室が伊勢を訪れる際も、名古屋駅東海道新幹線近鉄特急を乗り継ぐのが慣例である始末。

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f:id:stationoffice:20180524011815j:image近鉄名古屋駅で発車を待つ、鳥羽行き近鉄特急。常時2〜3本/hが運行され、編成も6〜8両と長い

これは、古く明治期に鈍重な蒸気機関車の走行を前提として敷設された参宮線と、新しく昭和期に電車ならではの高速運転を前提として敷設された近鉄線の差が際立ってしまったことが原因だ。参宮線が伊勢詣の輸送を独占できたのは、近鉄が開通するまでのたった30年余りの間でしかなく、その間の鉄道の技術の進歩は甚だしいものであった。国鉄にとって参宮線はいち地方路線に過ぎなくても、近鉄にとっては屋台骨であったわけで、高速・高頻度運転で乗客を惹きつけていく近鉄に対し、蒸気機関車時代の遅い車両と古い設備を引きずる参宮線は無力であった。それでも、近鉄では不可能な東京などの広域な直通運転が可能である点に支えられ、参宮線近鉄はある程度棲み分けができていた。

しかし、参宮線をローカル線に転落させたのは、皮肉にも同じ国鉄東海道新幹線の開通(1964年)であった。新幹線の開通により、東京からは遅い直通列車で伊勢を目指すよりも、圧倒的に速い新幹線で名古屋まで来て近鉄特急に乗り継ぐのが一般的となり、参宮線の持つ「直通運転が可能」というメリットが失われてしまったのだ。新幹線開通以降の参宮線近鉄への対抗をほぼ放棄しており、度々廃止の噂が立つほどであった。

しかし国鉄分割民営化以降、新生JR東海名古屋駅で新幹線と一番近いホームから出発させるなど、同じJR東海ならばこその新幹線との連携を主軸に、「近鉄特急よりも安く、近鉄急行よりも速い」快速みえを走らせ、参宮線の看板列車として完全に定着させた。全国一律サービスであった国鉄よりも、地域ごとに分社したJRではより地域に密着した運営が可能になったことで、参宮線は蘇ったわけだ。

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f:id:stationoffice:20180524011002j:image新幹線に一番近い名古屋駅13番線で発車を待つ「快速みえ」。 気動車ながら電車に劣らない俊足だが、昼間の列車は僅か2両

ただ、前回の式年遷宮(2013年)を前にした2007年、伊勢土産の定番として名高い赤福の会長、浜田益嗣氏が「参宮線を廃止し、跡地に駐車場を整備せよ」といった旨の提案をぶち上げたこともある。

asahi.com:「参宮線廃止、駐車場に」 赤福会長、式年遷宮控え提案 - 暮らし

もちろんそんな話は現実的な提案としては受け取られなかったが、いくらJRになってテコ入れがなされたといっても、地元にとっての参宮線の存在感の無さが浮き彫りになった出来事でもあった。

近鉄への対抗馬、参宮線「快速みえ」

11:37、名古屋発。関西本線快速みえ7号鳥羽行き。

名古屋―桑名はJR快速でも近鉄急行でも20分だが、運賃はJR350円、近鉄440円とJRに軍配。ただ、JRは快速・普通(所要30分)併せて4本/hなのに対し、近鉄は急行・準急(所要26分)併せて5本/hと、フリークエンシーの面では近鉄に分がある。JRでは普通2本/hしか停車しない蟹江・弥富・富田などでは、5本/h使える近鉄急行・準急に更に有利な状況となる。JRは単線区間が残る上に貨物列車も走ることからダイヤの成約が厳しいが、持てる設備を最大限に利用し、近鉄に何とか一矢報いているという状況だ。

発車10分前に扉が開くと、2両編成の座席は瞬く間に埋まり、扉付近には立ち客も出た。4両編成でもおかしくない混雑ぶりだ。ドア付近には立客が多数となって、名古屋を発車。終点鳥羽までの停車駅は桑名、四日市鈴鹿、津、松阪、多気伊勢市、二見浦のみであり、紀勢本線が分岐する多気までの停車駅は特急南紀と同じ。手強い競合相手がいるが故の、破格のサービスっぷりが清々しい。

愛知県最後の駅、弥富を通過すると木曽川、長島を通過して長良川揖斐川と、大河を立て続けに渡る。江戸時代の木曽三川分流工事によって洪水は減ったが、それでもこれだけの大河が続くため、江戸時代の渡渉は困難を極めただろう。陸路を辿っても渡船の利用が避けられなかったことから、旧東海道は熱田~桑名を船で渡るようになったのだろうと、連続する鉄橋を見ながら感じた。

f:id:stationoffice:20180524163305j:image木曽川を渡れば、そこは三重県(弥富〜長島)

予想通り、立ち客の多くは名古屋から20分、次の桑名で降りてしまい、その次の四日市で立客はいなくなった。桑名・四日市までの短距離客だけでもこれだけかき集めているとあらば、JRの近鉄対抗策は一定の効果を上げていると言っていいだろう。

四日市を過ぎると列車本数が減るため、運転停車もほぼなくなった。近鉄と違って地形に従順な線路を、地形に沿って右へ左へうねりながらスピードを上げて走るのは、快速みえの醍醐味だろう。近鉄の駅が近くにない多気での乗降がやや目立ったあたりは、いかにもな実態である。多気紀勢本線が右に分かれ、参宮線に入るとラストスパート。名古屋からちょうど90分、東京から約8時間を経て、13:07に伊勢市到着。2両編成の座席がほぼ埋めていたが、半分以上の乗客が下車。改札へ向かう人の流れができる。残った乗客は、やはり近鉄が通らない二見浦への乗客であろう。伊勢市で大半の乗客を降ろした快速みえは、ガラガラの状態で鳥羽へ向かっていった。

f:id:stationoffice:20180524163423j:imageどっしりとした木造の上家が歴史を感じさせる(伊勢市)

f:id:stationoffice:20180524163547j:image駅に併設された車両区。今も昔も参宮線の拠点である(伊勢市)

改札を抜けると、和風の装いの駅が迎えてくれた。お伊勢参りの始まりである。

f:id:stationoffice:20180524163722j:image2011年に美装化された駅舎。意外と神社造りではない(伊勢市)

 

(つづく)

12.旅の終わり:那覇のうまいもの ちゃんぽん、かつどん、ステーキ、スパム…#沖縄

沖縄グルメの定番といえばゴーヤーチャンプルー沖縄そば。しかしながら、自分でも沖縄を訪れるまで知らなかったものが沢山。それをご紹介すると共に、沖縄編のラストとして、島を走るバス達にエールを。

・沖縄式「ちゃんぽん」は麺にあらず

那覇に着いて、まず訪れたのが松山の「みかど」。ゆいレール県庁前駅を降り、パレットくもじや国際通りへ向かう人の波とは反対の久茂地方向へ向かう。

久茂地川を渡ると赤瓦やシーサーといった沖縄らしいものは悉く姿を消し、国道58号沿いに石張りのオフィスビルが建ち並ぶ、ビジネスライクな街並みになる。幅の広い国道をオフィスビルが取り囲むといった景色は、なんだか仙台の国道4号・東二番丁通りや、富山の城址大通りあたりの景色を彷彿とさせる。東二番丁も城址大通りも久茂地も中央の支店が軒を連ねるのは同じなので、似たような景色になるのだろう。日曜日の昼間とあって、いかにもな沖縄らしい景色が広がる国際通りの喧騒とは無縁。歩くこと5分、久茂地のオフィス街の一角に「みかど」はあった。

f:id:stationoffice:20180514191109j:imageオフィス街の一角で派手な看板が目立つ

黄色い看板に赤い文字というビビッドな色使いの看板に誘われて店に入ると、縦書きの札に書かれたメニューがズラリ。「とーふちゃんぷるー」「からしな炒め」と、平仮名ばかりなのはなぜだろう。カウンター席と厨房の間に、紅型(びんがた)の暖簾が揺れているのが沖縄らしい。

f:id:stationoffice:20180514191124j:image紅型の暖簾が揺れる店内

厨房には3人のアンマー(お母さん)が立ち、給仕や会計は1人のアンマーが全てこなす。都合4人で全部回しているわけで、沖縄のアンマーはよく働くというのは本当だなあと実感。年中無休で8:00~24:00という営業時間の長さにも驚くが、以前は24時間営業をしていたそう。16時過ぎという中途半端な時間に入ったにも関わらず、あたたかなごはんをいつでも食べられるというのは実にありがたい。実際、この日も軽装の先客が2名いて、遅お昼か早夕飯を食べていた。オフィス街の真ん中で年中無休の長時間営業というのは、終電車に惑わされないのが前提の沖縄社会の在り方ならではのスタイルなのだと思う。

「ここの名物は、なんといっても『ちゃんぽん』です」とO君。確かに、厨房の上に並ぶメニューにも「人気No,1」とある。長崎ちゃんぽんにしても、姫路のちゃんぽん焼き(うどんと中華麺を混ぜ合わせて鉄板で焼きそば状にしたもの)にしても、駅そばのちゃんぽん(日本そばとうどんが同じ丼に入っている)にしても、麺類というのは同じなので、沖縄のちゃんぽんというのも、大方沖縄そばと中華麺か何かを混ぜたものだろうと思っていた。自分はちゃんぽん、O君は沖縄そばを注文して待つこと数分、運ばれてきたのはつやつやのごはんもの。大いに予想を裏切られた。

f:id:stationoffice:20180514191209j:imageこれぞ沖縄式「野菜た●ぷりちゃんぽん」 650円という値段も魅力

f:id:stationoffice:20180514191316j:imageO君注文、オーソドックスな沖縄そば。550円

ポーク(ランチョンミート)をくずし入れた野菜炒めを卵でとじ、平皿に盛ったごはんに乗せたものが沖縄のちゃんぽん。キャベツにニンジンにタマネギといった定番の野菜ばかりでなく、沖縄らしく肉厚のからし菜が入っているあたりはいかにも沖縄。うん、うまい。これはごはんが進む。

「沖縄のかつ丼は、この野菜炒めが乗っているんですよ」とO君。16時過ぎまで何も食べていなかったこともあり、かつ丼を追加で注文することに。数分後、出てきた「かつどん」は、確かに野菜たっぷり。

f:id:stationoffice:20180514191243j:imageこれぞ沖縄式ヘルシー"かつどん" これだけ野菜が入って750円

野菜炒めの内容は変わらないながら(ポーク抜き)、細かめのパン粉の衣で、肉は薄め。しかしながら、これは薄切り肉の方が野菜炒めとの相性がいいと感じた。「沖縄のかつ丼は野菜たっぷりでヘルシーさぁー」と、店内に飾ってあった雑誌の切り抜きがどこか誇らしげだ。

ちゃんぽんに沖縄そばにかつどんに、メシのうまさと働くアンマーの姿が印象的な「みかど」でした。那覇を訪れる際は、是非オススメしたい。

 

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バス…久茂地経由(急行停車)「農林中金前」より徒歩1分、ゆいレール「県庁前」駅より徒歩5分

 

・沖縄人のパワーの源!アメリカ流「ジャッキーステーキハウス

沖縄滞在も最後の夜。何を食べようかという段になり、やはりもう一つの沖縄らしさである、アメリケンなステーキを食べようじゃないかという流れになった。

仙台市の牛タン焼きも米軍がもたらした大量のビーフ(の端肉)を源流に持つとされるが、沖縄のステーキは単純明快、まさに米軍がもたらした食文化そのもの。戦後、本土よりも安い牛肉を大量に仕入れられる環境に合った沖縄では、米軍相手の飲食店が数多く誕生した。いまや沖縄名物となったタコライス(タコスの具を白飯に乗せたもの)も、北部・金武町(きん―)のキャンプ・ハンセン前に開店した「パーラー千里」が元祖と言われる。タコライスのようにアメリカ文化と沖縄文化が融合したものもあれば、A&Wに代表されるハンバーガーなど、アメリカ文化そのもののものも多い。

そういった意味では、沖縄のステーキはアメリカ文化を色濃く残すカテゴリのものだ。仙台市の牛タン焼きのような独自の発展を遂げたものではないため、ちゃんぷるーや沖縄そばのように「沖縄名物」として認識されることはあまりないが、それでも街中に点々とステーキ店が並ぶ様子を見ると、ステーキがいかに沖縄の食生活に根付いているかがわかろうかというもの。

ステーキ店が歓楽街に多く立地するのも沖縄の特徴であり、これは本土より安いと言っても日常の食事としては高いものであるため、「呑みの後の締めにステーキ」であるとか、「事前にステーキを食べて精をつけておこう」といったように、非日常を演出するためのアイテムとして認識されているためではないかと思う。今回訪れた「ジャッキーステーキハウス」も、今ではうらぶれた街並みの中にあるが、かつては那覇で一番の繁華街であった東町の真ん中で、旧沖縄県営鉄道那覇駅と、栄華を極めた辻(ちーじ)遊郭を結ぶ途中にあたる。そのせいか、店の周囲は今でも妖しい雰囲気が漂っている。

ゆいレール旭橋駅から海側に進んでいくと、かつての繁華街の面影を残す、狭い敷地に小さなビルやアパートが立て込んだエリアに入っていく。奥へ進むと、街灯の明かりも乏しくなっていく。そんな中に、「ジャッキーステーキハウス」と書かれた赤いネオンがギラギラと光っていた。まるでステーキがもたらすエネルギー感を象徴しているかのようだ。

f:id:stationoffice:20180514195523j:image赤い蛍光管のネオンが闇に浮かぶ

f:id:stationoffice:20180514195635j:image混雑状況を示す信号機と、洒落の効いたポスターが笑いを誘う

夕食のピークを若干外した日曜の20時頃に入ったが、店内は客でごった返していた。名簿に名前を書くと、店員さんの予想によれば90分待ちだという。折角の那覇の夜を90分も潰すのはもったいないので、名前だけ書いて近くのスーパー「かねひで」を訪ねることにした。その様子は後ほど記す。

90分後に店へ行くと、ピッタリのタイミングで席へ通された。さすがは店員さんの経験と勘である。さっそく一番人気の「テンダーロインステーキ」を注文。250gが最大で、これ以上のカットは注文できないあたり、1ポンドステーキのようなボリュームで勝負するのではなく、ステーキの味そのもので勝負!といった心意気が見える。

メニューを見ると、様々なステーキやハンバーグが並んでいるのはもちろん、「スキヤキ」「ヤキソバ」「フライライス」「ミソ汁」といったステーキ店らしからぬサイドメニューが目を引く。ふと見ると、隣の家族連れが「スキヤキ」を頼んでいた。いったいどんなメニューが出てくるんだと思えば、文字通りのスキヤキが深鉢によそわれたものが運ばれてきた。それを取り分け、味噌汁代わりにおいしそうに頬張る顔がうらやましい。ステーキをカットする際に出た端肉を活用したメニューであろうが、なるほど西洋風のステーキソースと、しょうゆベースのスキヤキたれを交互に食べれば、飽きも来ない。

f:id:stationoffice:20180514195708j:image素朴な店内に芸能人のサインがずらり

f:id:stationoffice:20180514195728j:imageこれまた素朴なメニュー。ステーキ店らしからぬサイドメニューが気になる

隣のスキヤキをうまそうに眺めていたら、鉄板の上で肉が焼ける音と共に、テンダーロインステーキがやってきた。

f:id:stationoffice:20180514195802j:image

ジューーーーー。

白い!そして赤い!なんとおめでたい紅白のステーキだろう!

厚からず薄からずな白い淡白なステーキに、酸味の強い「ドリームNo,1ステーキソース」をかけて頂くのがジャッキー流。最初は酸味がきつく感じられるが、肉そのものの味をうまく引き出してくれる。酸味が強いだけに、最後までしつこくなく、さっぱりと食べられる。肉を焼き始めて表面の色が変わったくらいで鉄板に上げるこの焼き方は、ただのレアやミディアムレアというわけでもない。なかなか真似できない焼き方だ。

食べたころには22時を過ぎていたが、それでも店内にはステーキを求める客が列を成していた。この情熱的なエネルギーは、ステーキを食べる前からもはや胃袋から湧き上がっているかのよう。一見客はサイドメニューを頼むことなくステーキ一本で済ませているようだが、通いなれた常連客は先ほどのスキヤキを頼んだり、タコスを頼んだりと、味に変化を持たせている。250g以上のステーキを注文できないといったこともあるだろう。

f:id:stationoffice:20180514195822j:image22時を過ぎても行列は引きも切らない

ステーキのみならず、様々な沖縄鉄板グルメを味わえる「ジャッキーステーキハウス」。クラシックな沖縄ステーキを味わうには、うってつけの店だろう。

 

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・スーパー「かねひで」に見る「スパム」「チューリップ」

ジャッキーステーキハウスを待っている間、沖縄県民の日常の食生活に触れるべく、スーパーに出かけた。鮮魚、精肉、総菜コーナーを俯瞰すると、その地域の人々の普段の生活が見える。それが面白くて、旅先のスーパーに立ち寄るのが習慣になっている。旅先での貴重な90分を無駄にするわけにはいかなかった。

旭橋駅に戻り、ゆいレールに乗る。一つ那覇空港寄りの壺川駅で降り、徒歩5分ほどの「タウンプラザかねひで 壺川店」へ向かった。壺川店を名乗るが、カフーナ旭橋の再開発地区からも3~5分程度で、旭橋駅からも徒歩10分程度。この立地で平屋且つ平面駐車場であり、恐らく中心市街地に最も近い郊外型スーパーであろう。

かねひでは県内60店舗を展開する県内第2位のスーパー。ちなみに、第1位はサンエー(66店舗)、第3位はユニオン(18店舗)と続いている。ジャッキーステーキハウスの近くには「西町りうぼう」があり、その名の通り久茂地のリウボウ百貨店の支店という位置づけで、高級品にも力を入れている。初めての那覇とあれば、より庶民的な位置づけの「かねひで」に行っておきたかった。閉店は午前1時と、ここでも終電車の文化がない那覇の生活スタイルが透けて見える。

f:id:stationoffice:20180517232355j:image閉店は何と深夜1時。沖縄のスーパーでは24時間営業も珍しくない

沖縄のスーパーで眼を見張るのは、やはりポークランチョンミートの安さと品揃えの豊富さだ。「スパム(アメリカ)」と「チューリップ(デンマーク)」の二大メーカーに加え、「ミッドランド」「セレブレティ」という聞き慣れないメーカーのものまである。東京だとそもそも陳列されていないこともあるし、されていても1缶500円以上することも珍しくなく、「輸入食品」にカテゴライズされることも多い。しかし、沖縄では日常食として広く県民の生活に馴染んでいるため、スパム・チューリップとも200円前後で買い求めることができる。ミッドランド、セレブレティといった聞き慣れないメーカーだとさらに1〜2割安い。1〜2kgはある業務用の缶から使い切りサイズまで色々。100円台でまとまったサイズの肉類を常備できるのだから、そりゃ沖縄県民の生活に深く溶け込むだろう。

沖縄にはポークランチョンミートの輸入代理店や日本の拠点があり、アメリカやヨーロッパから日本へ輸入されてくるポークランチョンミートは、まず沖縄に入ってくる。東京をはじめ本土の各地で売られるポークランチョンミートは沖縄から「輸入」されたものなので、いわば価格に「離島料金」が上乗せされていることになる。本土にいると通販の離島料金に触れる機会などあまりないが、ポークランチョンミートはそれを教えてくれる好材料なのかもしれない。

f:id:stationoffice:20180517230408j:image左からミッドランド(デンマーク)、セレブレティ(デンマーク)、スパム(アメリカ)。スパム以外は本土ではあまり見かけない

 

・島バスたちへ送るエール

以上、全12回にわたり、沖縄の「島バス」たちを中心として、思ったこと考えたことをつらつらと書き続けてきた。このブログのタイトル「駅事務室」という言葉に象徴されるように、もともとは鉄道の旅を愛する自分が、鉄道で各地を旅したことを書き溜めていくつもりであったが、なんだか現時点では沖縄のバスブログのようになってしまっているのは、ひとえに沖縄のせいだ(笑)

自分にとって沖縄とは、他の本土のどこにもない「バスが主役」という、独自の進化を遂げた交通網がある、実に魅惑的な場所になった。自分なりに沖縄を路線バスで旅するなかで、もっと改善できると思う部分はたくさんあったし、第10・11回で、一応は自分なりの提案の形に仕上げられたと思っている。

日本は長く大量輸送機関たる鉄道が交通の主役だったおかげで、バスや路面電車といった中量輸送機関に関しては発展が遅れていると言わざるを得ない。欧州では広く一般的に走っているLRT(Light Rail Transit)はようやく富山で第1号が走り始め、宇都宮や岡山がそれに続くかといったところだし、都市型BRT(Bus Rapid Transit)に関しては、いまだ本格的なものが現れたとは言い難い。名古屋ガイドウェイバスや、名古屋市営バス新出来町線あたりが最も都市型BRTに近い存在だとは思うが、名古屋の市街交通の主役はあくまで地下鉄であり、バスは補完的な存在でしかない。

しかし、鉄軌道が那覇周辺の一部でしか走らない沖縄にあっては、まさに日本の中量輸送機関の先進地となるポテンシャルを持っていると思う。那覇市は今後も人口増加が見込まれる、数少ない地方都市圏なのであり、したがってゆいレール以外の交通の重要性は増していく。そのような需要には恵まれたマーケットでありながら、沖縄県も認識しているように、公共交通機関の輸送分担率は全国最低クラス。十分な交通インフラに対する投資がなされているとは言えない。

今まで十分なインフラ投資がされてこなかったことの裏返しではあるが、那覇バスターミナルのリニューアルオープン、ゆいレールのてだこ浦西延長、バス結節のための交通結節点整備と、沖縄本島各地で大きなエポックが目白押しだ。そしてその今であるからこそ、ゾーン運賃制の導入やバスモノ乗り継ぎシステムの整備を通し、沖縄は日本の中量輸送機関をリードする全く新しい仕組みを構築するチャンスなのだ。

本格的な高齢社会の到来とは、今までよりもきめ細かな対応ができる中量輸送機関が見直されやすい。駅ひとつ造るにも大きな土地や手間を要する鉄道に比べ、バスやデマンドタクシーであれば停留所一本を置けば済む。そして、国内各地で全く同じ課題を背負うなかで、バスへの依存度が高い沖縄は、バスをはじめ中量輸送機関をリードする存在になれると思う。何しろ、「バス党」なる組織が県をあげて活動している地域など、沖縄以外ではまず聞かない。

f:id:stationoffice:20180517235248j:imagef:id:stationoffice:20180517235300j:imageまたんめんそーれ

今後も、機会を見つけて沖縄を訪れ、沖縄のバスやモノレールについての動向を注意深く観察していきたいと思っている。学生時代にあまり触れてこなかったからこそ、これからの自分にとって何か大きな材料をもたらしてくれる、そんな予感がするからだ。

もっと便利になるために、まさに生まれ変わらんとしている「島バス」達に、東京からエールを送ろう。

 

(沖縄編・完)